国民皆保険の原点は修験道

現在の国民健康保険制度は,1961年(昭和36年)、私が小学校5年生の時だった。それまで公的医療保険に加入していた国民は3分の2程度で、医療を受けられず死亡した方も多かった。日本は資本主義国だが、社会保障はイギリス・ドイツ・フランス並みの社会主義国と言ってもよい。憲法の立て付けは占領軍によるアメリカ独立宣言の影響だが、明治以来の日本の法律・行政制度は、独・仏・英をお手本にした成果だろう。金儲けはアメリカの真似だが、国民生活は欧州を真似た方が暮らしやすい。

 

我が家は、父が公務員だったので、健康保険加入者だった。小学校入学前は、熱が出ると医者から尻に注射され、褒美に紙風船をもらった覚えがある。医者は、薬瓶から小分けして調剤し、粉薬を油紙に包んで渡された。家には常備の薬箱があって、富山の薬売りが年に一度、使った分だけ補充して代金を回収していた。この富山の置き薬売りは、江戸時代に始まったようだ。生薬が主体で正露丸、毒掃丸、頓服、塗り薬、赤チン、熊の胃、包帯、ガーゼなどが入っていた。今でも頭痛にはノーシン、喉が痛いと龍角散を愛用している。旅行に正露丸が欠かせなかった。この富山の薬売りが、ばったりと途絶えたのは、1961年に施行された国民皆保険制度が契機になったようだ。町に化粧品屋兼薬局が身近にできたのも、このころからだろうか。

 

富山の薬売りが全国を回るようになったのは、加賀藩から分封された富山藩が売薬を奨励したことによる。しかし江戸時代以前から富山の売薬が全国に普及する歴史的布石があった。

野草や鉱石を生薬に利用した歴史は、人類誕生に遡る。巫女やシャーマンは生薬の効能を熟知し、呪術や祈祷と合わせ生薬の処方も行い、魔除けや疾病の退散を行っていた。特に流行性の疫病は、悪霊の祟りのせいだと恐れられ神仏にすがった。

日本列島では、仏教伝来から病魔退散の役割を担ったのが、神道と習合した山岳仏教だった。

我が家は1200年以上の古代から能登一宮気多神社の上位神職を継承していた。加賀藩主前田利家の正室まつからは、武運長久や病気平癒の祈祷依頼の古文書が残されている。だが、藩主毒殺の加賀騒動の際は、冤罪の大槻伝蔵から藩主呪詛の依頼を受けたと連座され、親族の権大宮司家が廃絶の憂き目にあっている。

気多神社の神職は30家にも及ぶが、下級神職家では、副業に生薬製造も手掛け、神社のお札とともに生薬販売も行っていた。生薬と修験道の結びつきは、1300年前の奈良・大峰山の開祖・役行者に遡り、現在でも胃腸薬の 陀羅尼助(だらにすけ)が販売されている。修験道の山伏は山奥に分け入り、修行の傍ら生薬を採取し、配布することで信者の獲得と生計を立てていたようだ。

北陸の二大山岳仏教の霊場は、加賀の白山と能登半島の付け根の石動(いするぎ)山である。両山とも開祖は、奈良時代の文武天皇から鎮護国家の法師と認められた泰澄大師である。越前生まれの泰澄は、北陸に民衆仏教を布教した第一人者で、北陸一帯に布教伝説を残している。石動山山岳仏教は、鎌倉時代に隆盛を極め、300余坊、3千人の山法師が標高564Mの山頂一帯に居住していた。曹洞宗総持寺派の開祖・峨山韶碩(がさん じょうせき)が総持寺を能登半島に開山し、布教できたのは、石動山山岳仏教と、峨山の夢枕に現れた気多大明神のご加護と言ってよい。

気多神社と習合した石動山山岳仏教は、、北陸7か国(加賀・能登・越中・越後・佐渡・飛騨・信濃)の修験道の霊場として、智識米の徴収権を朝廷から許されていた。3千人の石動山法師は、秋から春先に数名に別れ七か国を巡回し、ほら貝を鳴らし、石動山天平寺と気多大社の祈祷札を配布し、各戸から7升の智識米をお布施として回収していた。気多大社にはこのうちの1升(7分の1)を奉納したといわれる。

また気多神社の春の大祭には、石動山衆徒六人が参加し、中門殿において七日の別齋を行った後に、神前に斧まさかり杯を持ち舞曲を奉納し、護摩を焚て奥社にて採燈の護摩法要を行った。この大祭は、オイデ祭りと言われ、羽咋から七尾までの邑智潟一帯を巡行するのに、石動山修験者も明治の神仏分離令までは加わっていた。

 

石動山の智識米の徴収を『廻壇配札』と呼ぶが、その際にほら貝を鳴らし、祈祷や護摩を焚き、護符や生薬などを交付して布施や初穂を受け取っていた。

これを売薬商売に転用して奨励したのが富山藩だった。配置売薬では、生薬の薬効を説明した上で薬を配置し、次回に使用分の料金を回収した。富山の薬売りの原点は、石動山修験道であった。日本人がコロナに強い免疫力を持つのは、生薬を服用していた太古の縄文人の遺伝子のおかげかもしれない。