大学受験は人生の岐路

昨日のブログを見た方から、中大の法科に進めば良かったのに、あなたなら司法試験は受かったよ、と言われた。まんざらでもなかったが、私には、中大法科の入試合格証だけで十分だった。それに勉強は入試の1年間だけでウンザリだった。司法試験浪人する気もない。高校は滑り止めの規律の厳しい国学院久我山だった。久我山では、そこそそこ優等生を装い、クラス委員で起立・礼・着席の号令をかける模範生だった。だが私には、男女共学の都立に落ちた負い目があって、ボタンまで黒ずくめの久我山の学ランを着るのが嫌でたまらなかった。一目で久我山だとわかるからだ。今では久我山は受験難関校だから黒の学ランを着るのも誇りだが、当時は落ちこぼれの受け皿だった。

大学は国学院推薦入学の特典があるが、別をチャレンジしたかった。学校も国学院以外のチャレンジを応援していた。今から思えば国学院の史学科もよかったと思う。もし選択していれば、博物館の学芸員か高校の先生になっていただろうか。考古学部の1年先輩のS氏は、国学院大学院で旧石器の博士号を取得し、某大学の教授となった方もいる。私だってなれたかもしれない。クラブの1年後輩のH君は慶応に合格し三井物産に入社していた。私は努力が足りなかった。
だが私には、そこまで考古学に打ち込む根気がなかった。と言って法学部を受験したのは司法試験を目指したからでもない。 経済や経営などソロバンとカネ勘定にも興味はない。理科系に進むには数学が苦手だった。就職に潰しのきくと言われた法学部がなんとなく無難に思えた。ありていに言えば、アイビールックのVANが似合う大学生っぽい生活がしたかっただけなのだ。

もし弁護士にでもなっていたら、さぞかし理屈っぽい橋下徹の上を行く負けず嫌いで屁理屈だらけの嫌味な男になっていたに違いない。 

 受験は、自信はなかったが慶応を目指していた。高校の卒業式と慶応法科の受験日が重なり、卒業式に出られなかった。みぞれ交じりの寒い日だった。慶応が最初の受験だったので、かなり緊張していた。慣れない万年筆で解答しなければならないが、父の太筆モンブランが藁半紙になじまずインクが滲んで回答欄をはみ出してしまう。書き直しはできない。焦って書き損じ、最初の科目でダメだと悟った。 慶応以外は鉛筆なので書き直しができる。最初の慶応の失敗で度胸が出来たのか、他大学は余裕ができた。最後に受験した学習院は余裕綽々で、合格発表を見なくとも受かると確信できた。すでに中央・立教、滑り止めの法政が受かっていたので見に行かなかった。日大医学部の兄貴が、帰り道に合格証をもって帰ってくれた。私は慶応ボーイにはなり損ねたが、学習院ってガラじゃない。学習院の受験の昼、私はコッペパンに牛乳だったが、他の受験生は親が弁当を差し入れし庭園で食べていた。

浪人せず軟派の立教ボーイに滑りこんだのは正解だった。欧米風の校舎のたたずまいも気に入ったし、祝詞に代わりチャペルの荘厳な讃美歌も新鮮だった。

立教大学入学式 2018年

2018年度 立教大学 入学式 - YouTube

立教では、肩を怒らせ知を競いあうこともなく、自然体の仲間と喫茶店で談笑するのは楽しかった。法学部は、宮澤俊義先生をはじめにオール

東大の錚々たる教授が揃い、東大より充実していたが司法試験教育はしなかった。社会に出て恥ずかしくない法の精神とは何ぞやを教育の主眼にしていた。単位がとれるだけの勉強しかしなかったが、部活とゼミと充実した4年間だった。生涯の友も得た。

人生って、思い返すと様々な岐路 があった。そのとき別の選択肢を進んでいたら…・想像もできないが、間違いなく別の人生になっていた。可もなし、不可もなし、平々凡々とした人生だったが、我が人生に悔いはない。立教の先輩、なかにし礼作詞、石原裕次郎 我が人生に悔いはなし

石原裕次郎 わが人生に悔いなし - YouTube