団塊の来し方行く末

昭和22年団塊世代。 緑内障が進行し、誤字脱字・誤変換が多いブログですが、ご容赦ください。 オーディオ好きが高じて、定年後に音楽喫茶を開店して11年です。 ジャズ・オーディオ雑誌にも何度か掲載された音の良い隠れジャズ喫茶でしたが 2020.3月に閉店しました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。

2018年02月

裁量労働制は悪法

安倍晋三は、<働き方改革関連法案>と称される法改正により、労働者の賃金支払い方式を拘束された時間ではなく、成果主義に変更すべく躍起となっている。
国会で問題となっている<裁量労働制>は、根拠となる厚労省のデーターがあまりにもズサンで、法案を通すために無理やり捏造したと、野党が疑うのは当然である。
根拠を失った法案は廃案にすべきだが、安倍晋三は、データーを精査するのが先だと強弁を繰り返し、撤回する気はないようだ。ところがデーターを精査すればするほど説明も付かない事態に陥ってしまった。
 
そもそも働き方改革の狙いは何なのか?そこがさっぱり理解できない。
資本主義社会における労働とは、何なのか?を考えると、行きつくところは<生産性の向上>による収益拡大以外にはない。
その利益追求の資本主義を護る政治団体が自民党の存在価値だから、働き方改革と言っても目線は、企業経営者が求める理想的な労働者の働き方となるのは致し方ない。
 
労働法の目的は、労働者の保護にある。しかし、安倍晋三が打ち出す働き方改革とは、労働者の保護に名を借りた労働強化としか思えない。
その本音を隠蔽するために、厚労省の木っ端役人が安倍独裁政権に忖度し、数百にも及ぶ基礎データーを改ざんし、<裁量労働制>が採択されれば、労働者の労働時間が短縮されるかの虚偽答弁書を捏造することになってしまった。
安倍晋三はこの木っ端役人が作成したでたらめの答弁書を得々と国会で披露し、<裁量労働制>が労働者の自由な時間を醸し出す夢の法案のように説明した。データー捏造が発覚し、答弁を撤回したが、法案はあくまで通すと頑張っている。
 
ところで、<裁量労働制>とは一体なんだろうか?
裁量労働制は、実際に働いた時間に関係なく、あらかじめ決めた「みなし労働時間」を基に残業代込みで賃金を支払う制度である。
この裁量とは働き手が自らの判断で仕事ができる労働制だとされているが、その反面で、長時間労働をしても残業代は支払われない。それゆえ、会社側による濫用の危険性が高いと指摘されている。
つまり、労働者の裁量で働く時間が決められるとはきれいごとで、企業は当然ながら賃金対価として成果を求める。成果が出なければ、徹夜しても残業代は支払われない。
 
そもそも論だが、サラリーマンが自らの判断(裁量)で仕事(ノルマ)を決められる職場はどれほどあるだろう?私の経験した限りでは、ありえない。
一般的に、管理監督職となれば、残業代は支払われないから、裁量労働制が適用されるのは、管理職になる前の若手社員がターゲットにされる。
一般サラリーマンはノルマで縛られ、今まではサービス残業で残業代を違法にカットされてきたが、採用労働制が悪用されれば、一定賃金以上はいくら残業しても、会社側は支払わなくてもよい法的根拠を得られることになる。サービス残業が合法化される制度と言っても過言ではない。
 
適用される職種は限定されるというが、定義があいまいで、企業から見れば抜け道だらけ。この法律で、従来より労働時間が短縮され、自由な時間が得られる労働者はどれだけ増えるだろうか?
ボクは間違いなく、労働強化につながり、電通のように過労自殺に追い込まれる若手社員が増加すると思われてならない。
 
少なくも今までは、残業時間を管理していたので、過剰な残業者がいれば、人事がチエックすることができ、過剰労働災害を防止する機能が備わっていた。
私が勤めていた日本鋼管(現JFE)では、20年前のころだが部員の残業時間は、人事部から毎月データーが管理者に報告され、月20時間を超えれば赤信号がともる仕組みで、年休の取得などの改善指導を行うよう上司は求められた。
納期が迫り、少ない人数で余人に代えがたければ、一時的に残業が増えることはあるが、慢性的に残業が多い職場は管理監督者の能力が疑われる。

しかし、裁量労働制を適用された職場の労働者は、残業してもしなくても賃金は一定だから、残業申告をする必要もなく、人事管理の必要もなくなり、成果だけを管理されることになる。
管理者としては、成果管理だけで、残業時間管理がなくなるから、過労死しても監督責任は問われなくなる。
企業としては、電通のような過労自殺が起こっても、経営責任が問われないから、これほどありがたいことはない。
なぜ、このような悪質な労働法制を、<働き方改革>などと称して成立を急ぐのか?もっと、国民的議論を行うことを強く要望する。

天皇譲位は国事行為か?
政府は、天皇譲位の儀式を<国事行為>とする閣議決定を行うという。
天皇が行なう行為は、大きく3つに分けられる。
憲法に定められた国事行為、憲法には定められていないが公的行為、それに私的行為である。
結論を先に述べると、今回の生前譲位は憲法に定める国事行為には明記されていないため、閣議決定で国事行為とするのは違憲と言わざるを得ない。
理由は、憲法4条に、<天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。>と明記され、その権限を拡大することは許されていないからだ。

そもそも現行憲法は、終身天皇を前提として出来上がった世襲天皇制なので、生前譲位の儀式は国事行為として想定されていなかった。
憲法で想定されていない規定を、政府(権力者)が勝手に解釈で変更したり、付け加えることは、立憲主義の法の精神から言えば、違憲行為に当たることは間違いない。
これは譲位を認めるとか、認めないと言った感情論ではなく、立憲主義に基づく法治国家としての純粋法理である。

現行憲法が成立した背景には、戦前の<天皇主権>の絶対価値観に代る<国民主権>の価値観への革命的な転換があり、戦前のように天皇の名のもとに国民の権利が阻害されないように、天皇の<国事行為>は憲法で列挙する範囲内に厳しく限定して、内閣の助言と承認を経て行われることと定められている。
生前譲位の儀式は、現行憲法の<国事行為>に列挙されていないから、いくら内閣が助言しようが承認しようが、法的には<憲法上の実体のない行為>となり、<国事行為>には当たらないと考えるのが法律的には妥当性があると私は考える。

むろん譲位の儀式は、皇室伝統の作法通り、天皇位のレガシーである三種の神器(鏡・剣)を譲渡されることで粛々と行われると思われる。
だが、これは皇室内の皇位継承の世襲神事だから、国事行為とするのは憲法の趣旨に反する。世襲そのものは、皇室典範に順位が定められていて、皇太子殿下に譲位されることに異論は全くない。
つまり天皇家としては、重要な公的行事であり、象徴天皇制を継続する日本国にとっても公的行事である。だが、憲法に規定されていない以上は<国事行為>とは見なし難い。

現行憲法の原則論だが、国事行為とは、天皇の意思によるものではなく、主権者たる国民の総意によるものと定めている。
今回の退位・譲位は天皇の意思(発意)によるもので、それを国会が特別立法で追認した極めて異例な形となっている。憲法は、戦前の教訓から天皇が国事行為を天皇の意思で行なうことを禁じている。
日本は個人崇拝の国家ではないから、現行憲法の天皇制とは、天皇個人を崇拝するものではなく、世界最古の日本固有の文化伝統を世襲で継承される天皇家に特別な敬意を払う意味あいから残されたと考えるべきだろう。
従って、生前であれ、死後であれ、天皇家の内部の規程により挙行される譲位の儀式は、国事行為ではなく、天皇家の公的行為と考えられる。皇室典範の規程により譲位された天皇は、公的に象徴天皇と位置づけられると考えるべきではないか。

政府が行なうべきは、譲位に伴う元号の改正と、国家的慶事として国民祝日に定め、新天皇誕生を国家的行事で祝いすることにある。

憲法改正論議が国会でも高まっているが、現行憲法の根幹は、<天皇主権>から<国民主権>に変換されたことにあり、国民が権力者の権限を憲法で制限し、個人の尊厳と自由を守ることである。
安倍政権は、憲法を意のままに自由解釈し、権力の自由裁量を拡大させてきた。これは立憲民主国家の原理原則を逸脱し、国民の自由を束縛する権力の暴走と指摘せざるを得ない。

パラノイア(偏執病)にどう対応するか?
 
インターネットで調べると、ブログやツイターの投稿に、しつこく絡んでくる嫌がらせに悩む相談が多く見受けられます。
その内容は、<不適切な攻撃衝動に基づく報復行動>といったもので、反論などしようものなら更にエスカレートし、攻撃の過激度を増すことが特徴的のようです。
 
これは典型的なパラノイア(偏執病)の症状です。
攻撃を仕掛ける本人は、『自分の意識したくない思考・観念』が内面に侵入することを嫌悪する意識が強く、外界や他者のブログやツイッターの刺激に対して過剰に過敏になり、『自分とは無関係な人』と自分とを空想的に結び付けてしまう妄想から、『自分とは無関係な人』に攻撃を転じてしまう症状が典型的です。
 
この過剰反応は、外向的性格の人に起こりやすく、普段は現実吟味能力(現実検討能力)が正常に保たれており、日常生活を送ることに大きな問題を抱えていないそうです。
本人は正常だと思い込んでいるから、精神病だと指摘されても受け入れることができないでしょう。それで治療が難しい。
 
世の中には、頭が固く、自己主張が強く、他人の意見を一切受け入れない人はまま見受けられます。
そんな偏屈な奇人・変人は人格異常とは言えませんが、普段の生活はにこやかな方でも、内に秘めた攻撃的性格を抑制されるストレスから解放されるブログのコメントなどでは、無記名で正体がばれないから、本性がむき出しになり、病的反応が素直に出やすい状況に陥るようです。
 
では、なぜそうなるのか?
心理学者の分析では、原因は本人の<人生における劣等コンプレックスや挫折体験、トラウマ体験>といった『特定の心理的原因』が多いそうです。
ただ単に意見が合わないから自己主張するものではなく、妬み(嫉妬心)や、劣等感が高じ、嘲笑することや、蔑むことで、自己満足を得ようとする精神疾患です。病理上は、パラノイアは基本的に神経症圏と精神病圏の中間に横たわる精神疾患だそうです。
 
それでは、このような精神疾患のコメンテーターにはどう対応したらよいのか?ですが・・・
先ずは無視する。
それでもだめならコメント欄を削除する。ブログを閉鎖する。公開範囲を限定する。フェイス・ブックに切り替える。など双方向の意見交換を遮断するか、コメントできる方が特定できるような防御しかないようです。
 
私は、10年以上前から逃げも隠れもせず、正々堂々と素性を明かして、ブログを一般公開するのを信条としてきました。
反対意見や異論であっても、柔軟に受け入れ、反論すべきところは反論し、納得出来るところは自分の間違いを修正してきました。
それで、ブログの間違いが是正され、正しい報道や知識を得る機会となり、自分の意見の社会性が保たれたと感じています。
 
<万機は公論に決すべし>とは、明治維新の際、五箇条の御誓文に謳われた明治政府の基本方針ですが、。相手の人格を損なうことなく、自由闊達に自分の意見を述べ合うことが民主主義社会の根幹です。
 
憲法では、<公序良俗に反する>ことや<名誉棄損に反する>こと。<公共の福祉>に反することなどの例外を除き、<言論の自由>が保障されています。
 
<人間の性は善なり>と信じて生きてきたのですが、最近はどうも違うのではないか?と疑うようになっています。
 
どうか、反対のコメントをする際には、相手の人格を尊重し、感情を排し、論理的に理路整然と行っていただきたい。
日本の民主主義は隅々まで浸透し、成熟していると思ていたのですが、現代病なのか、パラノイア(偏執病)疾患の方が増えているように思われてなりません。
少し冷却期間をおいて、コメント欄を再開したいと念じております。

お知らせ
 
執拗に度重なる誹謗中傷・嫌がらせのコメントが寄せられるため、コメント欄の表示と、コメントは不可または承認制に変更しました。
 
世の中には、病的にまで揚げ足を取ることに歓びを感じる人間が混在しています。一種の精神病(偏執病・パラノイア)で、自己中心的な誇大妄想が高じる異常性格者に多い症状のようです。
人格的には、猜疑心や劣等感が異常に強い人が掛かりやすく、薬でもカウンセラーでも直しにくい厄介ない病気です。
たぶん、普段は普通の人だから見わけがつかないが、隠れた異常人格に火が付くと自分でもコントロールできなくなるのでしょう。
時がたって、貴殿が正常な精神状態に戻ることを切に願っています。お大事に心穏やかにお過ごしください。
 
このような事態に陥り、真摯なご意見までお寄せ出来にくい状態になったことは大変残念に思っています。
 
ところで、北朝鮮の金正恩もある種の精神病患者でしょう。
アメリカに強がって見せているが、内心は恐ろしくってたまらない。
弱い犬ほどキャンキャンと吠えまくる。怖いから人を寄せ付けないように吠えたてる。怖くってたまらない癖に、噛みついて威嚇する。
 
最近の韓国との友和外交政策は、キャンキャン吠えまくっていると、本当に斬首作戦で殺される恐怖からでた苦肉の策ではないかと疑ってしまいます。
 
韓国を盾にして、その陰に隠れてアメリカに吠えたてる。
本気でアメリカと戦争を起こそうとは考えていない。
ベトナム戦争のようにホーチミン政権の大義名分もなく、中国の本格的支援も期待できない。
独裁者・金正恩は戦争となれば、勝ち目がないのはわかっている。だから吠えて威嚇する・・・のだと思います。
 
猜疑心が強いから、国内的には恐怖政治で締め付け、誇大妄想から自分は偉大な血統を受け継ぐ高貴な人物だと思い込む。
偉大な金正恩はアメリカをもひれ伏すことができる・・・と国民に見せないと恐怖政治が破綻してしまう。
となれば・・・話し合いでの妥協はできないでしょう。
 
世界は、金正恩の精神病が回復し、まともな指導者になれば斬首作戦もなく、戦争も起らないでしょう。
しかし、恐怖から解放された北朝鮮国民は金正恩を許すでしょうか?これまで通り、偉大なる将軍様と讃えるでしょうか?
金正恩のパラノイア独特の病状から回復させる妙薬はなく、金正恩を生かしたままで正常化させることは、至難の業と云えそうです。

福島県高湯温泉玉子湯
 
24日から湯治に出かけてきました。
高湯は一昨年夏の花月ハイランドに続いて2度目です。今回はちょっと奮発して評判の玉子湯旅館に三連泊。
ここは湯量が豊富で、源泉からは全てかけ流しです。高濃度の硫黄泉で、周辺は卵をゆでたような硫黄泉独特の匂いが充満しています。
源泉は50度を超えるため、湯守が絶えず流量を調整して温度をコントロールしています。
 
写真は部屋から外湯の玉子湯を映したものです。例年より雪は少ないそうですが、ご覧の通り。吾妻連峰の中腹750メートルの玉子湯は夜間は氷点下5度から8度。外湯から旅館まで30メートルほど歩いただけで濡れたタオルがコチンコチンに凍ってしまいます。
 イメージ 1
写真は、外湯の玉子湯の内部。昔の湯治場の風情がそのまま残り、今は男女の仕切りが真ん中にありますが、少し前までは混浴でした。
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外湯は足湯を含めて4か所が谷合の川沿いに点在し、湯巡りが楽しめます。
昔からの玉子湯のほかに、女性専用の露天風呂、男女別の露天風呂が藁葺屋根の掘立小屋の脱衣所の外に設けられています。
脱いで真っ裸となり、雪道を数メートル歩くだけですが、ジジイには心臓発作の覚悟が必要です。
氷点下の吹きっ晒しの中の露天風呂に入るのはキツイ作業でしたが、入れば極楽。野天の雪見風呂は温泉通には堪えられない喜びでした。
 イメージ 3
全ての風呂は木製です。エメラルドに白濁した湯温は43度。・露天風呂は外気で冷やされるため滝のように流れています。
内湯は大浴場と、34人程度の家族風呂があります。硫化水素濃度が高いためか、強制換気で内湯とは言え冷え込んで、湯気が霧のように立ちこめ、視界はききません。
 
ゲップが出るほど温泉を堪能し、四日間ですが外界と遮断する非日常生活を過ごしました。
 
写真は軒先から垂れ下がるツララです。
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好天でしたが、吾妻連峰の中腹にあるためか、晴れにも関わらず、時折粉雪が舞い、雪景色の風情を飽きもせず眺める4日間でした。

善なき悪の社会
 
世の中は、善人だけじゃない。悪人が混じっている。
善人は己の中に悪人が潜むことを知るが、悪人は自らが悪人だと気付いていないから始末に負えない。
全ての実在するものは悪である。だからからこそ善が輝く。
この世に悪が存在しなければ、対立する善などという言葉すら存在しないだろう。
 
善人と悪人は紙一重の差で存在し、鍵となるものが<自制心>と<思いやり>である。西田幾太郎流にいうならば<理性>である。
日本人の多くは、奥ゆかしいほど、<自制心>と<思いやり>に富み、慎み深く、出しゃばらず、意見を述べることもせず、反対意見であっても曖昧に言葉を濁す。
NO!!と云えない日本人。その曖昧さは西洋人には薄気味悪く感じられた。
 
日本的善の勧めは、自らが抑制的に社会とかかわることで、自らの幸福が得られるということではないだろうか。善の判断基準は己で決まるものではなく、所属する社会の規範に委ねられる。社会的な調和(ハーモニー)こそが唯一絶対の善である。
 
集団行動が得意で、前に進め!!右向け右!!と言えば一糸乱れず歩調を合わす。列を乱すことなく、従順に順番が来るまで辛抱強く待つ。それが日本人の善の勧めであった。
この善の勧めは、<道徳>と置き換えても差しつかえない。
<道徳>とは、個人が属する社会の行動規範であり、それを護れば、善だと評価された。その<道徳>を具現化した人物が<人格者>だと尊敬された。
 
人格形成は、自律的・自己形成でなされるものだが、実はその形成過程では他律的な教えをひたすらに護ることに重きが置かれた。
長きにわたる江戸時代の封建社会では、<論語>の素読が日本社会の隅々まで叩き込まれ、常識としてわきまえねばならぬ善の規範だった。
西洋社会では<聖書>であり、イスラムでは<法典>であった。他律的な教えを自律に置き換える作業、すなわち自らの内面から生じる行動にまで鍛錬し、昇華できれば人格者である。
 
西田幾太郎は、<善の研究>の中でこのように述べている。
 
真の善とはただ一つあるのみである。
即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。
宗教も道徳も実にここに尽きて居る。 ( (しか) )して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後 ( (よみがえ) )るのである。>
 
翻って現代を見れば、日本には社会規範となる善の教えが見当たらない。死して蘇る世界もない。共通基盤だった儒教もなく、宗教もない。共通する倫理が存在しないのだ。善がないから悪だけはびこる。
好き勝手な個人の行動を誤りだと諭す共有する倫理観が存在しないから、尊敬される人格者もいなくなった。
善悪の基準を失った日本。
 
ボクは右翼的な国家観に組みする気は全くないが、陽明学にある<知合一致>の考え方には共鳴し、それを実践しようと行動した江戸後期の儒学者・大塩平八郎のような生き方にあこがれた。
 
アメリカから押しつけられた憲法を日本流に改正することが自民党結党以来の党是だというが、それならばフランス革命以来、西洋社会が勝ち取った個人の自由と民主主義の精神を、どのような日本的精神に置き換えるのか、安倍晋三自身が示したらどうなのか?
 
憲法9条に3項を追加し、自衛隊の存在を追記するなどといったチンケな発想だから安倍は憲法学者からもバカにされるのだ。
右翼なら右翼らしく、堂々と、何が日本精神で、どんな倫理観を日本人が持つべきなのか?
日本を憂い、憲法改正を論じるならば、根幹の日本人が護るべき善の哲学を論じることが先決だとボクは考える。
憲法は、法哲学そのものであり、実体法とは違うのだ。

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