ふざけるな!!!レガシー神話
五輪施設のコンセプトに<後世に残るレガシー>と<アスリート・ファースト>なるお題目が飛び交っている。だがこの二つの言葉ほど、怪しい存在はない。
考えてみれば、1964年の東京五輪のメイン会場だった千駄ヶ谷の国立競技場は、いまどうなっているのか?それこそ復興した日本のシンボルだったはずである。それが、跡形もなく取り壊された。
誰にも相談なく、今回の五輪のために、さっさと取り壊し、新国立競技場をザハ氏の斬新的なデザインに決め、総工費は1300億円と試算していた。だがゼネコンが決定し、見直しを行ったところ3500億円まで膨らむことが判明する。ザハ氏には52億円の設計料(慰謝料?)を支払い、設計コンペを一括発注方式に切り替え、海外勢を排除したうえで、クマさんと大成建設提案のA案、約1500億円に決定した。
大体が、新国立競技場そのものが、無駄金である。なぜ1964年東京五輪のレガシーだった千駄ヶ谷国立競技場を活用する道を考えなかったのか?耐震補強し、仮設スタンドの増設をまず検討すべきであった。多く見積もっても500億円もあれば対応可能ではなかったのか?
その他の競技についても、前回の競技場の代々木や駒沢を改修し、最大に活用する方策をまず考えるべきだ。さすれば3兆円なんて膨大な経費を掛けることもなく、半分くらいで十分開催で来るはずである。観客席が不足なら、仮設のパブリック・ビューを増やし、愛好家が飲食をしながら楽しめばいいじゃないか?どうせ一回こっきりのお祭りである。
日本人は、<もったいない>精神があると言いながら、惜しげもなく施設を取り壊す。特に建築業界がからむ<箱もの>となれば、カネを湯水のごとく注ぎ込む。これは、日本経済が建設業を核にピラミッドのごとくカネを天から下々にバラまく<政官財>の癒着構造が出来上がっているからだ。
レガシーになる競技場なんてのは、建設業界がカネ儲けにデッチ上げる神話に過ぎない。レガシーというなら、1964年東京五輪の遺産を最大限に活用するのが日本人の誇りではないのか?
水泳の北島康介が、<既存施設の辰巳じゃできない>と反対し、その理由を、観客席の少なさ、既存施設の不備を指摘し、<五輪のみならずレガシーとしても(新会場が)必要だと考える>と現行通りの新施設建設を要望した。
辰巳の観客収容数は、現状で5035人である。ぞれを水球競技場に改修し、観客数を2万人まで増やす計画だ。
ともかく、辰巳は2万人まで収容できる大競技場に変身するらしい。
ところで、水球で2万人もの大観衆が5輪後も集まるだろうか?
現状の辰巳では水深が浅く、アスリートには不評なのだそうだ。それならいっそ、水深を深く改造し、水球と日程をズラせば、水泳競技と併用することは可能ではないのか?浮いたオカネはアスリート養成費に回すべきだとボクは思う。五輪を盛り上げるのは日本選手の活躍以外にない。施設ではないのだ。
北島よ。調子に乗って贅沢をいうな。と言いたい。
北島は、アスリート・ファーストの仮面をかぶって、新競技場建設を訴えたが、東京に国際大会が開ける水泳場が二つも必要だろうか?
アスリート。・ファーストというなら、選手育成の予算を増やし、幅広く全天候の水泳場を全国に増やすべきではないのか?
五輪メダリストで活躍した松田丈志選手は、4歳のころから、久世由美子コーチが私費で開設したビニールハウス改造の水泳教室で鍛えられ、27年間も苦楽を共にして育てられた。粗末な設備である。
東京一極集中ではなく、日本中に広くスポーツ振興予算を分配し、隠れ逸材を一流のアスリートに育てることがアスリート・ファーストではないのか?
<後世に残るレガシー>と<アスリート・ファースト>という美名のもとに、大規模な<箱もの>施設を建設したら、どうなるのか?
膨大な維持費が負の遺産(レガシー>となって、少子高齢化の日本を苦しめるだけではないのか。
今、全国で多くの公共施設が維持費不足で、雨漏り状態に陥り、取り壊しの運命に晒されている。
年に一度くらいしか埋まらない施設建設に巨大なカネを投じるのか?否か?小池百合子の手腕に委ねられている。だが、その小池が、盛んに<後世に残るレガシー>と<アスリート・ファースト>の鎧をまとい出したのは、いささか気にかかる。