団塊の来し方行く末

昭和22年団塊世代。 緑内障が進行し、誤字脱字・誤変換が多いブログですが、ご容赦ください。 オーディオ好きが高じて、定年後に音楽喫茶を開店して11年です。 ジャズ・オーディオ雑誌にも何度か掲載された音の良い隠れジャズ喫茶でしたが 2020.3月に閉店しました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。

2014年10月

 「朕が国家なり」とは、ルイ4世の言葉だそうだが、最近の安倍晋三の言動はそれに匹敵する中世の絶対君主である。
第一の問題は、集団的自衛権」の法を捻じ曲げた憲法解釈である。さらには、「武器3原則」を切り崩し、友好国への武器輸出を解禁した。<死の商人>をもって、国家を形成するなど、第一次世界大戦時のドイツ帝国時代の製鉄王クルップを想起させる。もっとも安倍晋三は神戸製鋼に勤務した経験があるそうだから、大型鍛造による武器製造が儲かることくらいは頭の片隅にあるのかもしれない。
ボクは自国防衛のためにだけ、武器を保持し、製造することは許されると思っている。だが人を殺す道具を、戦争を放棄した日本が輸出し、他国の戦争で儲けることは国是として許容されないし、憲法九条の理念とも背反する。
 
憲法の法規制とは、為政者の勝手な解釈で恣意的な運用はできない仕組みなのだ。それが市民革命を経て人類が獲得した現代の憲法の骨格である。
いくら占領軍により押し付けられた憲法だとは言っても、「立憲主義」「法治国家」「法の支配」の原理原則は、あくまで、<権力は法の支配の元に置かれ><個人の尊厳と自由>が国家権力により侵されないために創られたものが日本国憲法だといえる。押し付けであっても、人類が到達した優れた法概念に変わりはない。
こんなことは、成蹊大学法学部でも憲法原理を受講していれば、常識として植えつけられているはずだ。安倍晋三の憲法解釈論は、卒業単位すらもらえぬ落第生程度の頭脳といえる。
日本国憲法の特徴ある神髄ともいえる<憲法9条>をなし崩しに時の為政者が解釈改憲するなどは、<銃殺刑>に等しい国家(国民)反逆罪である。
何とも出来の悪い法学部出身者が、日本の最高権力者に君臨するとは、日本も情けない国家に転落したものである。
 
むろん、国民の3分の2以上の同意があれ憲法は改憲できる。
<法の支配>とは<適法手続due process of law>によらぬ限り、<国民の生命もしくは身体の自由は奪われない>と日本国憲法31条には明記されている。
安倍晋三のように、超法規的に憲法解釈を自分勝手に捏造し、国民を戦争に巻き込み、国民を死地に赴かせることは<民主主義>の崇高な理念さえ踏みにじる暴挙なのだ。
 
百歩譲って、安倍晋三のような軍国主義者の考えに同意したとしても、<法の支配>の下では、政治家は国民の三分の二以上の賛意を得て、改憲の手続をするのが民主主義のオキテなのだ。
それが、三分の二以上の同意を得るにはムズカしい。手続きに時間がかかりすぎて国際情勢に日本は貢献できない・・・国際法では集団自衛権が認められている・・ウンヌンと屁理屈を講じ、オキテ破りの集団自衛権の閣議決定は、法の根本精神からはなはだしく逸脱した国民反逆罪だと断定される。
 

高円宮典子さまが千家国麿氏と結婚された。
そのむかしむかしに天照大神に国を譲られた大国主命の末裔に、国を譲ってもらった天皇家から降嫁されたことは、誠に目出たいことである。古代のヤマト王権は、有力豪族と婚姻関係を結ぶことで天下統一がなされた歴史がある。
我が家も千家に負けず劣らず出雲大社系の北陸随一の由緒ある神主家の出身だから、身内のようにこの慶事を喜んでいる。まさに神話の世界の再現で、よき御縁だとご祝福申し上げます。
 
ところで祝宴のさなかのことである。皇太子さまの乾杯のごあいさつで、典子さまのエピソードに触れた際の出来事だった。典子さまは、微笑まれ、そっと右手(左手だったかも?)を口に添えてお隠しになったのだ。
そう云えば、口を押さえて笑う姿は、上流階級では、つい最近まで見慣れた光景だった。だが最近のお嬢様はそんな躾もなく、ノドチンコまでお見せになり、大口を開けて笑うのが当たり前の時代である。
典子さまも、現代女性らしく才気活発で、国麿氏よりハキハキと発言も素早く、出雲大社の宮司の奥様の裏方が勤まるのか?と、ちょっと不安を感じていた。
 
それがである。平安貴族の女御の如くに、扇ならぬ袖元で口元を隠すように、優雅にお笑いになったのだ。なにげなく、こんな仕草が自然に出来る。さすが天皇家に繋がる皇族である。臣下からお妃に登った方々には真似の出来ない出来事であった。
 
伝統ある出雲大社に、日本の伝統美を継承された典子さまが嫁がれる。誠に喜ばしいことと、改めて御慶祝申し上げます。

 今年のノーベル賞受賞者が、すべて揃った。
マスコミが煽った村上春樹と憲法9条は泡の如く消えてしまった。村上春樹はともかく、憲法9条のノーベル平和賞は、来年以降もありえない・・とボクは思う。
 
理由は簡単だ。
ノーベル平和賞は基本的に個人に与えられ、国家に与えられるものではないからだ。過去に国連組織や特定組織に与えられたケースはままあるが、国家に与えられたことはなかった。また、日本国民に
与えられるとしても、右傾化が著しく、改憲が渦巻く日本では、憲法9条は風前の灯に揺れ動いている。9条護持は、日本共産党が護る錦の御旗的な存在なのだ。
それに日本国憲法の理念そのものは、人類史上最高の戦争放棄と云った崇高な哲学を持つが、日本人が自ら勝ち取った権利とは云えない後ろめたさがある。
いわば、無条件降伏のポッツダム宣言を受諾した代償に、連合国軍から【お前たちは、永久に武器を所持してはならぬ】【はい、私たち日本人は子子孫孫まで丸腰で過ごします。】と憲法で誓約させられた結果なのである。だから駄目だと、ボクは云わない。
 
基本的人権に関しては、その原型はすでに明治憲法にも導入されている。現行憲法では、それを更にブラッシュアップさせて、【天は人の上に人を造らず・・】をより一層明確に【人権】を【国家】の上位に位置づけた。
現行憲法で一番苦心したのは、【天皇制の護持】であり、【戦争放棄】は日本人が望んで得たものではないことは明白だ。日本人は両手を上げ、戦意を失った意思表示に白旗を掲げ、それを憲法にも宣言した。それが憲法9条なのだ。
 
もしもノルウエー政府が日本の憲法9条にノーベル賞を贈ったとするなら・・・皮肉をこめて云えば、それは改めて戦勝国が敗戦国に、【お前ら日本人は、不戦の誓いを破るなよ!!」と警告を込めたものと云えるのではないか?
ドイツ軍に国土を蹂躙されたノルウエーである。【従軍慰安婦問題】【靖国参拝】など戦争の反省を忘れ、【軍事改憲】に前向きな日本政府に、あらためて【戦争放棄】を自覚させる。そんな政治的匂いを嗅ぎ取った安倍晋三と石波茂は露骨に眉をしかめて、<ノーベル平和賞は政治的>とけん制した。
 
だからと云って、ボクは安倍晋三や石波茂のように、自主憲法・改憲論者ではない。
【よい考えは素直に良い】と認めて【我が意を得たり】と取り入れるのが【和魂洋才】【わが短きを補いしむる】日本人の優れた能力だと思うからだ。
だから、憲法9条は率直に受け入れるべきだと思っている。
 
とは言え、自ら勝ち取った権利でもない憲法9条が、平和国民の証として【名誉】に讃えられるのなら、それはお角違いもはなはだしい。笑止千万・片腹痛い・・・おいらたちは、ただの敗残兵の子孫。恐れ多くって、そんなものいただけませんぜ!!と云ってあげたい。
 
もしもである。憲法9条で日本人が世界平和に貢献したとするなら・・・ボクは9条を改憲すべきだと思う。
【武器輸出の放棄】を9条に加えるのだ。【日本国民は地球上から武器が無くなり、人類が平和に共存する社会を構築するために、一切の武器輸出を放棄する。】
もしも、こんな改憲を日本国民が自らの総意で決定した暁には、マララさんをけ落とし、ノーベル平和賞にふさわしい国家・国民だとボクも認めるだろう。

以下は、インターネットからのコピペです。普段なにげなく使っていた言葉が、実は誤用だった・・・そんな例の一つが【言語道断】でした。本当にそうなのかどうかは未確認ですが、昔、東洋大学の先生が授業で出典をこのように話されていたそうです。
 
·        出典 『維摩経ゆいまきょう』阿閦仏品(あしゅくぶつぼん)
·        仏語。奥深い真理言葉表現できないこと。
「言語」は言葉に出して表すこと。「道断」は言うことが断たれること。「道」は口で言うこと。また、「言語の道が断たれる」意ともいう。
【この言葉、私は間違って《言語》+《道断》だと、最近まで誤解したままでした。《言語道》を《断》ずるのことなのですね。今よく使われている意味は、「とんでもないこと。もってのほかのこと。」で、たまに使われるのは「口ではとうてい言い表せないこと。」です。そして仏教語としては、「言語で説明する道の絶えた意。仏教の奥深い真理はことばで説明することができないこと」を言います。
 《言語で説明する道》とは、言い換えれば、言葉を使っている私たちの世界、凡夫の生活、俗世のあり方と言えましょう。言語の道が断たれたところに「お覚り」があるということです。仏教は基本的に言葉を信じていません。
 維摩経というお経の中で、教えを説くのに香りをもってする衆香国という最上香台如来の国土(お浄土)が出てきます。そして、そこでは説法を聞くことを聞香(もんこう)というと。つまり、言語の道が途絶えたところに、仏さまの世界が広がっているということなのです。以心伝心、不立文字などが同義語といえましょう。
 巷で使われる「もってのほか」という意味とは正反対のものとして、よいこととして、すばらしいものとして仏教では、この言葉を使います。】
 
【名稱】:言語道斷
【拼音】:yán yǔ dào duàn
【釋義】:原為佛家語,指意義深奧微妙,無法用言辭表達。後指不能通過交談、談判的方法解決問題。
【出處】:《纓珞經》:“言語道斷,心行所滅。”

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