団塊の来し方行く末

昭和22年団塊世代。 緑内障が進行し、誤字脱字・誤変換が多いブログですが、ご容赦ください。 オーディオ好きが高じて、定年後に音楽喫茶を開店して11年です。 ジャズ・オーディオ雑誌にも何度か掲載された音の良い隠れジャズ喫茶でしたが 2020.3月に閉店しました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。

2014年09月

これも御岳渓谷で写した写真です。
手前の白い野菊(?)と奥のマンジュシャゲを欲張って両方写し込んだものです。
暗かったので、三脚なしではこれ以上に絞り込むのも出来ず、お茶を濁した写真です。
欲を言えば、望遠側でもう少し絞り込み、手前の白い花も、奥の赤いマンジュシャゲもくっきり写し込み、白と赤との対比が浮き上がってくるようだと、あの世とこの世の花みたいな雰囲気が出てきたかな
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?って感じです。あるいは赤いマンジュシャゲにだけ陽光が射せば、背景が濃くなっていたと思います。写真は光の芸術ですから。
三脚持って、一眼レフじゃないと撮れないかも・・・
 
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友人のM君がタブレット端末をもち歩くようになった。指先でサッーと撫でると、画面がスイスイ替わるやつである。まだ十分に操作なれしていない様子だが、如何にも楽しそうである。画面も指先を広げると拡大出来るので、画像が大きく判別でき、鮮明である。
欲しいな・・って思ったのだが、ボクは歩くセールスマンは卒業したし、持ち歩いて使うこともない、それにメールの文字が小さくってボクには見えない。Mは、「大きく出来ますよ」って云うが、どうも文字が大きくならない。入力のタッチパネル上の文字盤も小さくって、ボクの武骨な指では誤操作しそうな気がした。
「じゃあ、写真を撮りましょうか」とMが云う。室内で撮ってみると、実にシャープである。絞りが深く、パンフォーカスなので、背景に映ったポスターの文字も拡大に耐える鮮明度だ。手ぶれ補正もあるのだろう。画面がキャビネサイズはあるから、十分に鑑賞にたえる。記録写真としては十分すぎる。
「じゃあ、メールに添付して送ってよ」とMに頼んだが、添付して送ったことがないので要領が分からぬらしい。まだ送ってこない。宝の持ち腐れじゃないか。
 
タブレットは確かに優れモノだが、お散歩カメラにはチト大きすぎる。ボクが常用しているカメラは手のひらにすっぽり入るデジカメである。フジノン・レンズが好きなのでフジフィルムの16MEGAを使っている。A4に拡大して、季節ごとに30枚ほど店で飾っておくと、「カメラが違うと映りも違いますね。ところでカメラは何を?」って訊かれる。ボクは、「バカ・チョンですよ。これ・・」って見せてあげる。皆さん一様に、「これでこんなにきれいに撮れるの・・っ」て感心される。
 
ボクは内心ではほくそ笑むのである。手のひら大と云っても、絞り優先・シャッター優先・マクロ機能・手ぶれ補正、それにプラス・マイナス補正機能は付いている。ボクは全自動で撮ることはめったにない。絞り優先にして、被写体のどこをフォーカスするのか?画面に締まりを与えるためにプラマイ補正を必ずかける。デジカメといえども、テクニックの基本はアナログなのだ。
 
写真の基礎が分かれば、次は何が決め手か?
写真の格言には「四隅に注意せよ!!」と云う言葉がある。つまり被写体に夢中すると、四隅がおろそかになり、余分なものが映り込むケースが多いからだ。写真の決め手は、構図にある。それに背景、余分なものを如何に捨てるか。
花を写す時は、背景がゴチャ・ゴチャしないように、濃度の濃い背景になるように気を配る。色の濃い花なら、逆に淡い背景でボカしてみる。被写界深度を浅くし、背景のボケを利用する。ピントが前ボケにならぬように焦点を定める。平面な写真にならぬように立体感を持たすのである。
 
そんなことを考えながら、一つの被写体を写すから時間が掛かるのである。写真は一人で撮らぬと、気が散っていいものはできない。
 
最近はこのお散歩カメラが楽になり、ニコンの一眼レフ・デジカメはすっかりホコリを被ったままである。しかし、夢はもう一度、機関銃の台座にも使われたフランス製のジェツオの三脚を担いで、2.8・200MM望遠を付けて野山を駈けてみたい。そんな時代もありましたね。
 
写真は御岳渓谷の名も知らない野草です。

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昨日のことである。ご近所の老婦人から相談を受けた。「義母の形見のLPレコードを処分したいんですが、どうしたらいいか・・・」そのかたの義母は国立音大のピアノ教授だったかたで、ご存命なら100歳はとうに超えている。
ボクはお歳から考えて、「LPレコードじゃなくって、蓄音器時代のSPレコードでは?」と尋ねると、「いやLPです。」とのこと。クラシックのLPは、オリジナルの初期の外国盤じゃないと先ず値は付かない。日本盤は引き取りようもない。
クラッシック・ファンはオリジナルコレクターが少なく、CDで十分に満足する方が大多数なのだ。いまどき五味康祐のように、タンノイ・オートグラフで、LPレコードを楽しむ方なん一握りもいないだろう。
それでボクは、老婦人に「よほどの外国盤のオリジナルでないと、売るのは無理だと思います。それに保存状態とかも・・・」
老婦人は「捨てるのは忍びないので、引き取ってもらえる方があればいいんですが・・」・・それでボクは、とり合えずお伺いして状態を確認することにした。二十数畳はゆうにありそうな立派な書斎にグランドピアノが据えてあって、正面にはマントルピース付きの暖炉にシックな応接セット。さすが音大のピアノ教授がお使いの書斎だけあって優雅である。しかし、現在は誰も使っていないのだろう。閉め切りで開かずの間のようなカビ臭い匂いがする。
 
LPは書棚に200枚弱あった。ザーと拝見すると、全てピアノ曲ばかり。しかも大半はショパンの練習曲である。交響曲や器楽曲は見事に皆無。数枚の外国盤を残して、すべては国産のLP盤である。年代は50年代半ばから80年代まで。初期のいわゆるフラット盤も多く含まれている。研究用に所有されていたので、いわゆるコレクターではない。オリジナルの外国盤を求めることもなく、日本の再販もので十分だったのだろう。
ボクもピアノ曲は300枚ほど所有していて、これ以上増やす気もない。・・・どうしようか?・・・売れるようなものなら、ディスク・ユニオンに連絡して引き取りに来てもらう手もあるが・・・たぶん・・売れないだろう・・・思案していると、老婦人のダンナさんも出てきて、「そろそろ、養老院に入る準備で家財を整理しようと思っていましてね・・・」と話し出す。レコードは処分し、CDで音楽は楽しむことに決めたのだと。
ボクは「先生の教え子に、遺産としてお分けしてはいかが?」と提案したが、皆さんお歳をめしていて連絡もつかない、それに皆さんそれなりにレコードは持っているだろうからと・・・それで、ボクは、店に置いて無償で欲しい方にお譲りしても良いと言う条件でお引き取りすることになった。
 
レコードを整理してみたら、中に3枚だけ日本人女性ピアニストのレコードが含まれていた。久保田恵子リサイタル。1961年に音大を卒業した教え子で、現在は音大名誉教授である。あと一枚は,岡田昭子・ドビッシー”子供の領分“。岡田さんは芸大卒で国立音大のピアノ専攻科の教授だった方である。残りの1枚は、クロイツアー豊子さん。芸大時代の恩師のレオニード・クロイツアーと結婚し、織本豊子からクロイツアー豊子となった,やはり国立音大のピアノ教授となった方である。お三方ともに、多くの弟子を育てられ、ボクより遥か年上である。
 
そんな話を朝のラジオ体操の仲間で、元国立音大のフルート教授だった某婦人にお話しすると、お三方とも知合いなので、是非LPが欲しいと頼まれた。むろん喜んでお譲りする。
 
そんな訳で、ひょんなことから故仙波八重子名誉教授の遺品レコードを譲り受けることになった。もし縁故のある方がいらっしゃいましたら、遺産分け致します。ご連絡ください。
 
写真は、故仙波八重子名誉教授の教え子で、これまた音大名誉教授となられた久保田恵子さんのPLです。

御岳渓谷は、国立から1時間ほど。
御岳から沢井までの30分ほどの遊歩道ですが、川岸にはマンジュシャゲの花が赤く咲き、渓谷は初心者向きのカヌー競技場になっています。写真を撮り、おにぎりをほおばりながら、2時間ほどゆっくりと歩きます。
沢井に辿りつくと、そこは小澤酒造の酒蔵があって銘酒澤乃井が待ています。
奥多摩の渓谷を眺めながら奥多摩の水で清められた
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澤乃井を飲むのは格別な絶品です

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行楽の秋。快晴の御嶽山の山腹は紅葉が見事に色づいている。山に登ったものにしか分からぬ至福のひとときを山頂にたたずむ皆が共有していた。そんな時、突然に惨事が襲った。30余名の人たちが、水蒸気噴火による火砕流に巻き込まれ命を奪われてしまった。
 
人間は、自然の下僕である。時に自然は、己を破壊する人間に自然の恐ろしさを伝えにやって来る。その犠牲者は無作為に選ばれ、或る者は命を失い、或る者は九死に一生を得てこの世に舞い戻る。何が生死を分けるのか、神のみぞ知る。
 
宇宙に生きている以上は、いつ何時でも、こんな自然の脅威に人間は曝されているのだと思い知らされる。
明日を予定して生きることは大切なことだが、人間は明日はないと、今に生きることも大切だ。
 
写真は、奥多摩の御岳渓谷の彼岸花です。お彼岸の日に、渓谷では渓流下りのカヌーで若者たちが水と格闘していました。木曽御嶽山で尊い命を奪われた皆様のご冥福をお祈りいたします。

ダンボール10箱ほどの図書を友人の【邪馬台国図書館】と【羽咋市郷土歴史資料館】に寄贈したので、少しばかり書棚が空いてきた。羽咋には更に56箱寄贈するつもりでいる。
空いたといっても、床に山積みになっていたLPレコードを、書棚に収納するとほぼ満杯の状態に戻ってしまった。この際だから、ジャンル別に再整理し、取り出しやすいように、A/B/C順に並び変えてみた。これが思わぬ重労働で、5千枚近くのレコードの大移動になってしまった。
 
ジャズ・ボーカル・POPS・歌謡曲・フォーク・カントリー・ラテン・ボサ・ロック・ブルース・クラッシックに分類し、さらにそれをA/B/C順に並べるだけの単純作業に1週間かかってしまった。でもまだクラッシックは十分ではない。EPレコードも1千枚ほどあるが、これも整理しきれていない。
分類のための仕切りプレートをディスクユニオンで50枚ほど買い求めたがまだ不足している。この仕切りプレートに分類した名称を書いておけば問題ない。
整理した当初は、だいたいの所蔵位置は覚えているが、1カ月もすると忘れてしまう。リクエストに応えて、レコードを出したまではいいが、問題は収納である。うっかり、どこかにまぎれてしまうと、先ず探すのは困難。それで、最近はリクエストがあっても「持ってるんですが・・・どこにあるのか?・・・」って、探すのも面倒だし、接客しながらレコード探索には限界を感じていた。
 
先日のことである。ある老婦人から、「ロイヤルコンセルトヘボウが聴きたいの。何か掛けて・・」とリクエストされた。む・・・む・む・・ううう・・・これは難問である。よほどの通なら、すぐに常任指揮者のハイテンクやリカルド・シャーイを思い浮かべ、なにか探しだすのだろうが、ボクはそこまでクラッシックには精通していない。
それに、クラッシックは、作曲家別か、またはピアノ・バイオリン・金管楽器などに分類される。たまに指揮者でリクエストされることもあるが、たいてい演奏曲目を指定される。演奏する交響楽団をリクエストされたことは始めてだった。
それにボクは、クラッシックは、ながら族で別の作業をしながらBGMで聴くことが多い。真剣に耳を澄まして聴かないから、誰の演奏で、どこの交響楽団だったかそう覚えていない。
NBCと云えばトスカニーニ。ストコフスキーと云えばアメリカン・シンフォニー楽団、カラヤンと云えばベルリン。小沢といえばボストン。シカゴならショルティ、バレンボエム、ムーティくらいは断片的に覚えている。
最近好きなのは、Academy of St. Martin-in-the-Fieldsと云うイギリスの教会の合奏団。ネヴィル・マリナー指揮による古楽器(最近は古楽器とは呼ばずoriginal instruments (オリジナル楽器もしくは period instrumentの名称が正しい使い方)の演奏が痛くお気に入りなのだ。昔ならヴィバルディーの四季と云えばイムジチだったが、いまはSt. Martin-in-the-Fieldsだと思っている。
ともかくも、交響楽団は指揮者が育てるもので、交響楽団をご指名され、指揮者は誰でもいいの・・ってリクエストされてもボクは困ってしまうのだ。
音が変わる要素は、ウイーン・フイルのように使用する楽器まで楽団で用意されるところを別にすれば、演奏会場の音場空間による響きの影響が大きい。
ロイヤルコンセルトヘボウの音が好きだとすれば、それはアムステルダムの王立コンサートホール(すなわちロイヤルコンセルトヘボウ)で収録した録音がお好きだと解釈すべきなのだろうか。レコードを分類するのは一筋縄ではいかない。

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September 
rain rain 9月の雨は冷たくて♪・・・太田裕美が唄った名曲である。・・とボクは思っている。
すると、ツイターで、Rainy Days and Mondays♪・・とつぶやく人がいた。ギターリストで2・3度わが店にも来店していただいたお方である。言わずと知れたカーペンターズの名曲。これもいい。
ボクの店は、ジャズがメイン・ストリームだが、こんなリクエストがあればホイホイ掛けてしまう変わった店でもある。
 
最近のボクのお薦めは、ジャズでも演歌でもPOPsでもないクラッシック。
Glenn Herbert Gouldと、Stokowski率いるAmerican Symphony Orchestraが共演したLP盤です。
 
グールドと云えばバッハのゴルトベルク変奏曲が超有名で、ジャズファンにも通じる名演で知られる。自由奔放にバッハを奏でるピアノタッチは、異次元の空間にだれしもが誘われる独特の感性の豊かさで圧倒される。
そのグールドがこれまた奇才を放つストコフスキーと共演し、ベートーヴェンの交響曲第5【皇帝】を、ストコフスキー80歳にして創設したAmerican Symphony Orchestraを指揮して1966年に録音されたものです。
 
グールドとストコフスキー。個性あふれる天才がこれまでの常識を超えてベートーヴェンをどう奏でるのか?・・・結果は圧倒されて、涙が出るほどの名演である。超スローペースで始まった第一楽章からピアノの静かな音が加わり、グールド独特の唸り声が漏れてくる。そして主題に入り、緩急自在にグールドのピアノが唸り声を上げる。その音は一寸の緩みも妥協もなく、グールドの世界観が胸にひしひしと迫って来るのだ。ストコフスキーはグールドと張り合うこともなく、グールドの世界観に和して、10本指を駆使し、若きASOの楽団員をグールドの世界観に誘うのだ。
 
8月の終わりは、このレコードを数回かけてプロの音楽家にも聴いて頂いた。ともかく圧倒的な迫力には、プロの方々も、天才で一分の隙もない名演だと脱帽されている。
リクエルトください。ちょっと長いので、第二楽章で終わる場合もありえます。早めの時間帯なら第3楽章まで全曲おかけできます。
 

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