団塊の来し方行く末

昭和22年団塊世代。 緑内障が進行し、誤字脱字・誤変換が多いブログですが、ご容赦ください。 オーディオ好きが高じて、定年後に音楽喫茶を開店して11年です。 ジャズ・オーディオ雑誌にも何度か掲載された音の良い隠れジャズ喫茶でしたが 2020.3月に閉店しました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。

2013年06月

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隔月ごとに開かれる音の闇市も20回目。
歳月は4年を数え、第1回目から欠かさず参加された田中正男さんも、65歳を目に前にして先月24日に旅立ってしまった。人の一生って、早いものですね。
そんな訳で、旅だった田中正男さんを偲んで、オーディオ自作マニアの彼に相応しい曲を贈ろうと、第20回の記念闇市が昨夜行われました。

参加者は、固定メンバーとなった10人に正男さんゆかりの3人。同じく第1回目から欠かさず参加されるタマさんが横断幕を用意され、そこに持ち寄った贈る曲を、英語堪能のミノさんがすらすらと書きこんでくれたのだ。全員がサインし、正男さんの冥途のみやげにと奥様に手渡して、3時間半の昨日の会も楽しく散会となった。

ともかくこの会は、ジャズ好きで、ジャズについて一言語りたい連中のオアシスになりつつある。毎回愛好家垂涎のオリジナル盤を持ちこみ、自慢じゃないがと自慢するタマさん。惜しげもなく聴かせていただけるのはありがたい。
川崎TOPSのナベさんはプロだけあって、どっちかと云えば正統派に飽きたのか珍盤派。昨日はアセテート盤を持ちこんでいただいた。アセテート盤は、LPレコードを製造する前段階で、アルムニュームの上にニトロセルロースをコーティングして、レコード溝をカッティングしたものである。LP版よりも強度が低く剥離しやすい弱点を持つが、高音質で製造段階の試聴用としてもっぱら造られたものだ。
何回も針を落とすと、レコード溝が削られる恐れがあるのだが、レコード製造の初期の目的のためだけだから、それで問題ないのだ。ところでその音だが、米国盤のDIAHANN CARROLL。どうも市販前にボツになったようで曲目すらよく解らない。喉から手が出るほど欲しいいい音がした。欲しいと頼んだが、非売品だと断られてしまった。

半年ばかり前から常連になった地元代表のタダツさんは、フリー系ジャズにどっぷりと浸かった青春を過ごしたそうだが、50を過ぎて今や隠れ演歌・POPS愛好家。ボクと趣味が合うのだが、闇市では、そんな素振りは露ほども見せない。だいたいこの会で、演歌も好き・・なんてのはバカにされるのがオチなのだ。それでもボクは臆せず、ザ・ピーナッツのポピュラー・スタンダードLPからブルーカナリーとセンチメンタル・ジャーニーを掛けてやった。この盤はめったに目にしない貴重盤なのである。ミノさんの制止を振り切って、テネシーワルツも掛けてしまった。ピーナッツは大好きなのだ。

最後を飾ったのは、タマさん御自慢のオリジナル盤。デトロイトの愛好家から奪うように譲っていただいた代物なんだそうだ。なんでも以前に2nd盤を闇市で掛けたところ正男さんが痛く気に入られ、今回はオリジナル盤を持ちこまれたのだ。
盤はSTUDY IN BROWN。かのマックス・ローチとクリフォード・ブラウンが火花を散らす大熱演の大名盤である。レコーディングは1955年の2月。ブラウンは翌年の6月25才の若さで不慮の交通事故で亡くなってしまう。若き大天才である。
たぶんチェロキーを鳴らしたんだろうと思う。タムタムの音がほとばしり、ペットが夜空を切り裂くように唸る。その切れ味の良さは、ボクが持つ重量盤の再販盤とは雲泥の差を感じる。
EAST SIDEの音響システムともマッチし、ニートのNHK納入モデルのモノ針が真価を発揮してくれた。音の大吾味はここに至れりである。
天国の正男さんも喝采して楽しんでくれたことだろう。

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加賀藩に仕官した甚太夫のお父上、五代甚兵衛は、正徳3年(1713)に大宮司となるが、3年後の正徳5年(1714)、病弱ゆえに羽咋郡大念寺新村に引退したとされる。
だが、大宮司櫻井甚兵衛の名前は、現存する大宮司家の系図には残されていない。明治六年の大宮司家の記録によれば、「権大宮司櫻井監物家は、社僧 長福院と争論のため 明和年間(1764-1772)に家名断絶につき氏名不詳。」と記されている。この消えた系図になにか秘密があるのだろうか。

そこで気多神社に残る古文書に、手がかりがないかと調べるうち、延享3年(1746)の櫻井基延嘆願書(羽咋市史中世寺社編P413・気多神社櫻井家古文書49)に、その時代が詳細に書き残されていた。

当時、気多神社を代表する大宮司は、実は二家あったのである。
前田利家公が能登に入部された天正時代のことである。大宮司家は断絶していた権大宮司家を再興し、正副2名の大宮司体制が確立された。しかしその後、権大宮司家はいったん廃絶され、寛永八年(1631)に大宮司の三男善兵衛成忠が、権大宮司家を再び興す。善兵衛成忠の息子は大監物を称して基明と名乗り、一時的に大宮司職を代行する時代があった。
この大監物基明は、正徳三年に没しており、錠二家に残る正徳三年に没した<四代大監物>と時代が照合された。この大監物基明を継いだのが、五代甚兵衛だったのである。しかし、この権大宮司家は、加賀騒動以降に廃絶し、再興されることもなく、その系図は気多神社には残されていなかったのだ。

大監物基明は、仕官して藩士となる家祖の甚太夫の曽祖父に当たり、大念寺新村に隠棲した甚兵衛の父に当たる人物である。
大宮司家の系図では、寛永八年(1631)に大宮司櫻井基納(監物)から分家した三男善兵衛成忠を、善兵衛基末(成忠は異名)と記され、権大宮司家へ婿養子となった人物である。なお、大宮司基納(監物)四男の亀千代(幼名)は、我が家(伊豆守)へ婿養子に入る。櫻井新八郎基重と名乗り、大床職・権々総行事職を継いでいる。私から数えて12代前の祖先である。つまり380年ほど前にさかのぼると、櫻井錠二家とは、54代大宮司清七郎基正を父とする兄弟の間柄だったことになる。

櫻井基延嘆願書に依れば、甚兵衛と同時期に大宮司を名乗った権大宮司家の人物は、「櫻井治部孝基」である。つまり甚兵衛は通称で、大宮司としての正式な官職名は、「治部孝基」であったと確認できる。甚兵衛家は、故あって寺社奉行の沙汰により、(権)大宮司職を解かれ、一宮から<所払>の処罰を受けてしまった。それで能登半島随一の大庄屋である福野潟を干拓して大念寺新村一帯の水田を支配する雄谷家(おうやけ)を頼り、ここに客分として匿われた。
雄谷家は福野村の大庄屋で、正門前は掘割が設けられ、現存する家屋は石川県重要文化財に指定される豪壮なかやぶき屋根の建物が保存されている。
雄谷家は在所にあって最大の気多神社信奉者である。福野村の総鎮守に気多神社を勧進し、気多神社の春の大祭おいで祭の際には、神輿が雄谷家に立ち寄り、当主は羽織袴の正装で出迎えるのが慣例となっていたほどである。
この雄谷家の客分として匿われていた櫻井甚兵家が、実は最近まで現存していたのである。同家は、「甚」の一字を通字として名乗り、地元では「ジンヘイ」の屋号で呼ばれていた。本来なら屋号は<善兵衛>だったのだろうが、雄谷家に屋号を<善兵衛>と名乗る分家が存在するため、「甚兵衛」に変更されたものと推測される。明治になって名字が許され、晴れて気多神社の許可を得て、伝承されていた気多神社ゆかりの櫻井姓を名乗るようになったそうだ。
写真は、雄谷家正面玄関から見る福野潟干拓地です。見渡す限りの水田は、戦後の農地解放前まで雄谷家が所有されていました。

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櫻井錠二家に残る歴史によれば、寛保3年(1743)2月18日 馬術に長けていたので、乗馬指南役竹村仁左衛門の弟子として江戸表で仕官する。、加賀藩前田家に10人扶持馬乗役として仕えるようになり、いらい9代甚太郎に至るまで代々加賀藩士として乗馬役を務めるようになった。
この初代加賀藩士、櫻井甚太夫の前歴は、気多神社大宮司だとされ、その父甚兵衛は、気多神社大宮司大監物の三男で、正徳3年(1713)に大宮司となるが、3年後の正徳5年(1715)、病弱ゆえに羽咋郡大念寺新村(現・鹿賀町福野)に引退して大宮司の職をその子甚太夫に譲ったと記載されている。

しかしながら問題は、現存する明治まで気多神社の上位神職家として残された櫻井家には、該当する人物がいないのである。
第一の疑問は、世襲で継承された気多神社の神職がなぜ引退して他村に隠棲しなければならなかったのか?一宮で悠々自適の人生が待っていたはずなのだ。
第2の疑問は、加賀藩士として仕官する名誉を、なぜ気多神社の古文書では残していないのか?である。
錠二家が仕官するに当たり、気多神社大宮司職の経歴を詐称するほど大それた行為はあり得ない、なぜなら、加賀藩筆頭の神社として気多神社は、寺社奉行所の管轄下にあり、その大宮司は能登半島全ての神社の触頭を勤める大役だったからである。更には大宮司になるには、京都御所の勅許を得て、従五位下の位を得る必要があった。加賀藩内で詐称すれば、たやすく見破られたのである。つまり、錠二家の系図に虚偽記載は考えられないのである。

問題の解は、甚太夫が仕官した寛保3年(1743)と、隠棲したとされる大宮司が、病弱ゆえに羽咋郡大念寺新村(現・鹿賀町福野)に移住した2点に絞られた。
寛保3年(1743)は、あの加賀騒動の立役者大槻伝蔵が、人持組3800石に加増され、文字通り藩政改革を担う重役に昇進した年であった。隠棲した羽咋郡大念寺新村(現・鹿賀町福野)は、後述するが、現代まで櫻井姓で<甚>の一字を継承する一族が現存したのである。これは奇跡の出会いと云っても過言ではなかった。

錠二家が仕官した寛保3年は、藩政危機の状態を乗り越えるために、足軽上がりの大槻伝蔵を重役に据え、藩侯前田吉徳が、大ナタを振るって藩政改革に乗り出した矢先の年である。緊縮財政の第一歩は人減らし。にも関わらずである。櫻井甚太夫は、新規お召抱えの藩士にとり立てられたのである。これを推挙できる人物と云えば、権勢を誇った大槻伝蔵と、藩主吉徳公以外に考えられない時代であった。

実は調査するうちに、意外な事実が浮かび上がってきた。
歴史の影に女あり。と云うが、徳川幕府に置いても、大奥の女性たちの影の動きが、表の政治を動かしていた様々な事実が浮かびあがっている。藩侯に直に接する機会は、実は大奥の女性たちに多く与えられ、その影響力なくして表の政治を円滑に執り行うのは困難であった。
大槻伝蔵の上手いところは、この大奥の女性陣のハートを掴む手練手管といっていいだろう。巷間ウワサされたように伝蔵は、子坊主から小姓に上がり、吉徳公の御側近くに子供時代から仕えていた家臣である。大奥の女性たちの怖さも、使いようも心得ていたから、武骨な歴代の家臣より、吉徳公に寵愛され、異例の出世を遂げたのである。

この前田吉徳公の大奥(前田家では御広敷と呼んだ)に、気多神社大宮司の親類が中老として勤めていたのである。中老の名は<沢野>と呼ばれた。権大宮司櫻井正基の縁戚の沢野は、前田家重臣・長新十郎善連(きちつら:3万3千石)の家老、山田六郎五郎の妹である。金沢において吉徳公の奥屋敷中老となり、延享元年(1744)に病死している。

更に、甚太夫には、有力な援護者がいた。その女性の名は<櫻井>としか伝えられていない。
権大宮司大監物櫻井基明妻の姉は、芸州浅野家に嫁いだ節姫の老女<櫻井>であった。節姫は、安芸御前様と呼ばれ、芸州(広島)藩主浅野吉長正室で、五代藩主前田綱紀の3女節姫である。六代目藩主吉徳の実の姉で、終生頭の上がらぬ出来たアネゴであった。大名家では、お殿様を御前と呼び、奥方は御前様と様付きで呼ばれていたのだ。この御前様の老女(家老格)の一人が<櫻井>だったのである。

甚太夫は、士官するに足る十分な支援者が、藩侯のおそば近くにいたのである。ではなぜ気多神社の大宮司が、乗馬指南役で士官できたのか?なぜ大念寺新村に隠棲したのか?・・次回更に詳しく解き明かしたいと思います。

写真は、延寶7年(1679)気多神社櫻井家に残る神社古文書の一部です。本文とは関係ありません。

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第5代藩主前田吉徳(よしのり)は、茶坊主あがりの大槻伝蔵を重用し、藩政改革に取り組む。それは利家以来、北陸に百万石を築いた重臣たちにとって面白いはずはない。
加賀百万石は、徳川御三家に次ぐ大藩であった。参勤交代の行列は三千人を超え、列藩最大のきらびやかな行列が、中山道六百キロを往復したのである。この家格を維持するのは相応の出費が伴い、従来型の門閥政治では経済破綻が目に見えていたのだ。そこに
破格の知遇をえて登場するのが茶坊主上がりの大槻伝蔵である。

藩政改革の成功者とは云え、吉徳の死後は、疎外されてきた重臣の嫉妬と怨嗟の的は、大槻伝蔵に集中する。更に悪いことに、吉徳は稀代の艶福家。妾腹7人に産ませた男子が9人も残されていたのだ。
家督相続を巡る妾腹・側室たちの争い。そこに重臣たちの政治的思惑が加わるから藩内は疑心暗鬼と魑魅魍魎が跋扈する闇の世界に突入した。先ず血祭りに挙げられたのが、成り上がり者の大槻伝蔵である。
これが「加賀騒動」のデッチ上がられた政治的背景で、重臣八家筆頭1万千石の前田土佐守直躬の描いた策謀であった。

加賀騒動とは、藩主暗殺未遂事件である。
寛延元年(1748)6月26日、本郷上屋敷で毒入り事件が発覚する。吉徳を継いだが宗辰(むねとき)は、藩主の座わずか一年で22歳の若さで死去する。急遽、藩主となった重熙(しげひろ)の養育を務める生母・浄珠院の釜の湯に、毒物が混入されたのである。
捜査の結果、吉徳の娘 楊姫付きの腰元浅尾の犯行と判明した。さらに主犯は実子利和(としかず)を次期藩主につけることを狙った側室の真如院の指示であると断定された。真如院は大槻伝蔵と不義身通を重ね、真如院をそそのかした張本人は大槻伝蔵ではないか?と過酷な拷問が、腰元浅尾に加えられたのだ。ちまたでは、面白おかしく蛇攻め地獄の憂き目にあっていると喧伝された。そしてついに、この事件の黒幕の大槻伝蔵は、加賀藩の流刑地だった五箇山の牢獄に繋がれ、自殺して果てた。

今日では、この事件は冤罪だと、歴史家により立証されたが、江戸三大お家騒動(伊達騒動・黒田騒動・加賀騒動)の中でも一番おどろおどろしく歌舞伎狂言にまで取り上げられて庶民を沸かすことになってしまった。

ところで、なぜ錠二家と加賀騒動は関連するんだろうか?
錠二家と気多神社大宮司家との姻戚関係を調べるうちに、気多神社大宮司家は加賀騒動の首謀者・大槻伝蔵に連座し、大宮司追放の憂き目に会った事実が浮かび上がって来たのである。
当時は、大槻伝蔵は、加賀藩転覆の大罪人。親族はことごとく死罪に処せられている。それゆえに気多神社においても、大宮司家が加賀騒動に連座した歴史はタブーだったのだろう。従って多くを語ることもなく、後世に伝えられることもなかった。
そうした中で、錠二家が仕官した経緯を残すことは、勢い大悪人・大槻伝蔵と気多神社との悪しき因縁を語り継ぐことでもあった。加賀藩寺社筆頭の三五〇石の禄高を安堵される気多神社に汚点を残す大事件だった。更には、藩士として安定した暮らしを始めた錠二家にも有利なことではなかった。意識的にこの事件は闇に消されていったのである。

現在では加賀騒動はでっち上げの冤罪で、大槻伝蔵は無罪だと歴史家が実証している。大宮司家が気多神社から追放され、錠二家の祖先が仕官した経緯を明かすことに、いまでは問題がないはずだ。
手掛かりが少なく、欠落した加賀騒動前後の古文書を再生し、系図のミスリンクを修復することが、この私に与えられたミッションなのだと、ボクは強く思ったのである。(続く)

写真は、五箇山集落に再現されている加賀藩獄舎の縮所。陽も当たらず、暖房の火もない小屋で、厳寒の冬の五箇山を過ごす苦痛は想像するだけで身も凍える。

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山本和子さんのHPと出会ったのは、平成19年の夏のことだった。
山本さんは、櫻井錠二氏の孫に当たり、錠二氏の偉業を伝えるHPの管理人である。偶然に<気多神社と大宮司>をパソコンで検索していたところ、錠二氏の祖先が加賀藩前田家に仕官する直前まで、気多神社の大宮司であったと記されるHPに遭遇したのだ。

本論に進む前に、櫻井錠二一族について、簡単に紹介しておきたい。
幕末の櫻井甚太夫家11代当主となる房記は、加賀藩の馬術指南を務め、兵学校であった壮猶館(そうゆうかん:洋式武学校)で砲術教授を勤めた。更に藩命で砲術修行のため横浜に出張を命ぜられ、藩費で明治3年に大学南校(旧幕府の晶平學舎・現在の東京大学)に留学しフランス語を学ぶ。後に東京物理学講習所(現東京理科大学)の設立に加わり、旧制第五高等学校(熊本)5代校長(1900~1907)となった。

次弟の省三は、兄同様に大学南校からフランスに留学し、東京帝国大学教授、海軍大監として海軍造船分野にすすんだ。戦後はフランス料理研究家としても知られた。

末弟の錠二は、藩の英学校到遠館に学び、さらに七尾語学所に移り高峰譲吉などと外国人教師オズボ―ンに英語を学んだ。高峰譲吉は、アメリカに留学し、タカジャスタ―ゼやアドレナリンを発見し、三共蠅僚藺綣卍垢箸覆襦
一方、櫻井錠二は、明治3年に13歳にして兄たちと同じく大学南校に進んだ。19歳でロンドンに国費留学し、帰国の後に東京帝国大学理学部教授となった。その後、東京帝国大学理科大学学長(現東大理学部長)、渋沢栄一の理化学研究所創設に加わるなど近代化学会の礎を築いて、東京女学館館長、枢密顧問官などを歴任して男爵に叙せられた。櫻井3兄弟は、近代化の幕開けの時代にそれぞれの学問分野で大いに貢献し、加賀藩を代表する明治の偉人として、金沢ふるさと偉人館に顕彰される人物である。

この甚太夫を通字として継承する櫻井家は、寛保3年(1743)に加賀藩士に取りたてられた。その出自は能登一宮気多大社の大宮司家の出身と記され、遠祖は代々「大宮司櫻井監持」を名乗ったとされていた。
しかし、明治の最後の大宮司を勤めた櫻井家の系図とは、整合性が見られないのである。

甚太夫家の系図によれば、寛保3年(1743)に、第六代藩主前田吉徳(よしのり)公の加賀藩江戸表で、10人扶持馬乗として召し抱えられた。馬術調教師範役で加賀藩につかえた甚太夫家は、金沢城下馬場一番丁で100石の家督を幕末の櫻井甚太夫まで受け継がれている。

このように士分として加賀藩にとり立てられたなら、気多神社としても名誉なことである。大宮司家の系図の中に、分家として残されていてもおかしくない。わが家系とも縁続きと云うことになり、私としてもかかる頭脳明晰な親戚と御縁があるなら誇りとしたい。しかし、大宮司家にも我が家系にも甚太夫と云う名前が見つからないのだ。
そこで山本和子さんに詳しい系図を尋ねたのだが、仕官する以前の系図は断片的にしか残されていないらしい。

仕官されたのは270年前のことだから、近世大宮司家系図から消えるとは考えにくい。何か痕跡があるはずだ。そこで山本さんの協力を得て、気多神社を離れ加賀藩に仕官するに至る消えた甚太夫家を捜索する歴史の旅に出発することになった。

時は寛保3年(1743)名君と呼び声の高い前田吉徳公が亡くなる2年前のことである。名君の歿後、加賀藩は家督相続を巡る内紛から、かの有名な「加賀騒動」が勃発する風雲急を告げる時期であった。

写真は、累代の加賀藩主前田家の野田山墓地を、地元の歴史研究家で加賀騒動を執筆された横山方子さんのご案内で訪問したときの筆者と山本さん、横山さんです。

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