気多神社宮司櫻井氏に関する古代編は、今回で締めます。
次回からは、加賀藩の御家騒動(加賀騒動)に巻き込まれた櫻井大宮司家と、明治の石川県出身で初代東大理学部長となる近代化学を生んだ櫻井錠二氏との関係について、歴史の闇に隠れた謎に触れてみたいと思います。
ところで前回までの歴史探訪により、北陸一の大社とされた気多神社の歴代社家であった櫻井氏は、蘇我系櫻井朝臣の一族で、古墳祭祀に不可欠の官営須惠器製造工房を組織する長官職として、6世紀中葉の古代神道の祭祀に深くかかわっていたことを解明しました。
気多神社ほど古代の北陸鎮撫の守護神とされた神社には、ヤマト王権の古墳祭祀制度を持って国家統一の期待を担って派遣された神官は、北陸の豪族たちが納得できる相応の身分の中央貴族である必要性があったからです。
ブログと云う制約上、論文には欠けた内容ですが、これまでの傍証の積み重ねで、歴史に詳しくない陪審員の方々にも≪さもありなん≫との心証を抱いていただければ、歴史の証言台に立つ者の冥利につきると云うものです。
我が祖先の櫻井朝臣は、第8代孝元天皇の孫、建内宿禰を共通の祖先とする≪川辺・田中・高向・小治田・櫻井・岸田・久米・石川≫の8家の一つで、7世紀初頭には、蘇我馬子を族長と仰ぎ、明日香を拠点とするヤマト王権の中枢豪族であった。と記紀に記されている。
櫻井朝臣の本家は、明日香村櫻井の地に住み、現在の奈良県桜井市谷を発祥に誕生した。畿内(摂津・河内・和泉・大和)には、多くの櫻井に因む地名が残され、その地を訪ねると、古代の櫻井氏との縁が深いことが立証された。≪拙書・『気多祝の源流』第4章・桜井の地名を訪ねて≫
我が祖先が少なくても6世紀にはヤマト王権の中枢豪族として、古代政権の運営に参画していた結論に辿りつくまでには、42歳から55歳までの13年の歳月を要してしまった。
歴史は推論であってはならぬ。と云って古代史をひも解く場合は、少ない文献の読み込みだけではこと足りない。古事記・日本書紀は創世神話的要素が強いから、鵜呑みにはできない。記紀はあくまで参考で、基本は編年体できちっと記述されている<続日本紀>を丁寧に読み込むこと。その他の資料は、後世の改作・創作が加わるから孫びきしては根拠が危ういものとなる。だからと云って、かなりまとまって現存する<続日本紀>も、欠落が多く、かつ写書を繰り返すうちに誤写・脱字が生じる。歴史は至るところミスリンクなのである。
そこで重要なのは、地名・神社に残された古代の痕跡、考古学調査の記録から文献との照合作業が欠かせない。我が家のルーツを探るため13年も費やしたのは、地名・神社の痕跡を実際に現地を自分で踏査し、確認する作業のためであった。
と云っても、本業はサラリーマン。けっこう負けん気の強い営業マンだったから、手抜きをしたつもりはない。休暇や出張帰りの週末を利用して、気多を冠する地名・神社に限らず、櫻井の地名と、神職の在籍する神社を訪れ、地元の考古学資料と地歴を調べまくった。そのあいだに、課長・次長・部長と人並みに昇進したが、酒を飲んでも毎日の勉強は欠かさなかった。
古代編をブログに載せるにあたって、煩雑さを避けるため、結論に至るまでの論拠を割愛してしまったが、多面的な視点から考察し、この結論に至ったことを付け加えておきます。
詳細は、拙書『気多祝の源流』(個人書店2003年刊279頁)に載せてあります。
けっこう難解な内容なので、本当に興味のある方しか、読めないものと思われます。御一報いただければ、残部が多少残っていますので進呈致したいと存じます。
連絡先は、現在営んでいる音楽の喫茶店・国立のEAST SIDEのHPから、電話または、ゲストブックにお書き込みください。
写真は、平成の大遷宮を終えたばかりの出雲大社。一昨日お参りしてきました。
気多神社は、出雲の大国主命を祀る神社ですが、現在は第三者が占有する独立宗教法人になってしまいました。止むなく、お参りは出雲まで出かけています。いつの日か地元の人々に愛される神社に復帰することを祈っています。