団塊の来し方行く末

昭和22年団塊世代。 緑内障が進行し、誤字脱字・誤変換が多いブログですが、ご容赦ください。 オーディオ好きが高じて、定年後に音楽喫茶を開店して11年です。 ジャズ・オーディオ雑誌にも何度か掲載された音の良い隠れジャズ喫茶でしたが 2020.3月に閉店しました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。

2013年05月

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気多神社宮司櫻井氏に関する古代編は、今回で締めます。
次回からは、加賀藩の御家騒動(加賀騒動)に巻き込まれた櫻井大宮司家と、明治の石川県出身で初代東大理学部長となる近代化学を生んだ櫻井錠二氏との関係について、歴史の闇に隠れた謎に触れてみたいと思います。

ところで前回までの歴史探訪により、北陸一の大社とされた気多神社の歴代社家であった櫻井氏は、蘇我系櫻井朝臣の一族で、古墳祭祀に不可欠の官営須惠器製造工房を組織する長官職として、6世紀中葉の古代神道の祭祀に深くかかわっていたことを解明しました。
気多神社ほど古代の北陸鎮撫の守護神とされた神社には、ヤマト王権の古墳祭祀制度を持って国家統一の期待を担って派遣された神官は、北陸の豪族たちが納得できる相応の身分の中央貴族である必要性があったからです。
ブログと云う制約上、論文には欠けた内容ですが、これまでの傍証の積み重ねで、歴史に詳しくない陪審員の方々にも≪さもありなん≫との心証を抱いていただければ、歴史の証言台に立つ者の冥利につきると云うものです。

我が祖先の櫻井朝臣は、第8代孝元天皇の孫、建内宿禰を共通の祖先とする≪川辺・田中・高向・小治田・櫻井・岸田・久米・石川≫の8家の一つで、7世紀初頭には、蘇我馬子を族長と仰ぎ、明日香を拠点とするヤマト王権の中枢豪族であった。と記紀に記されている。

櫻井朝臣の本家は、明日香村櫻井の地に住み、現在の奈良県桜井市谷を発祥に誕生した。畿内(摂津・河内・和泉・大和)には、多くの櫻井に因む地名が残され、その地を訪ねると、古代の櫻井氏との縁が深いことが立証された。≪拙書・『気多祝の源流』第4章・桜井の地名を訪ねて≫

我が祖先が少なくても6世紀にはヤマト王権の中枢豪族として、古代政権の運営に参画していた結論に辿りつくまでには、42歳から55歳までの13年の歳月を要してしまった。
歴史は推論であってはならぬ。と云って古代史をひも解く場合は、少ない文献の読み込みだけではこと足りない。古事記・日本書紀は創世神話的要素が強いから、鵜呑みにはできない。記紀はあくまで参考で、基本は編年体できちっと記述されている<続日本紀>を丁寧に読み込むこと。その他の資料は、後世の改作・創作が加わるから孫びきしては根拠が危ういものとなる。だからと云って、かなりまとまって現存する<続日本紀>も、欠落が多く、かつ写書を繰り返すうちに誤写・脱字が生じる。歴史は至るところミスリンクなのである。
そこで重要なのは、地名・神社に残された古代の痕跡、考古学調査の記録から文献との照合作業が欠かせない。我が家のルーツを探るため13年も費やしたのは、地名・神社の痕跡を実際に現地を自分で踏査し、確認する作業のためであった。

と云っても、本業はサラリーマン。けっこう負けん気の強い営業マンだったから、手抜きをしたつもりはない。休暇や出張帰りの週末を利用して、気多を冠する地名・神社に限らず、櫻井の地名と、神職の在籍する神社を訪れ、地元の考古学資料と地歴を調べまくった。そのあいだに、課長・次長・部長と人並みに昇進したが、酒を飲んでも毎日の勉強は欠かさなかった。

古代編をブログに載せるにあたって、煩雑さを避けるため、結論に至るまでの論拠を割愛してしまったが、多面的な視点から考察し、この結論に至ったことを付け加えておきます。
詳細は、拙書『気多祝の源流』(個人書店2003年刊279頁)に載せてあります。
けっこう難解な内容なので、本当に興味のある方しか、読めないものと思われます。御一報いただければ、残部が多少残っていますので進呈致したいと存じます。
連絡先は、現在営んでいる音楽の喫茶店・国立のEAST  SIDEのHPから、電話または、ゲストブックにお書き込みください。

写真は、平成の大遷宮を終えたばかりの出雲大社。一昨日お参りしてきました。
気多神社は、出雲の大国主命を祀る神社ですが、現在は第三者が占有する独立宗教法人になってしまいました。止むなく、お参りは出雲まで出かけています。いつの日か地元の人々に愛される神社に復帰することを祈っています。

今日の午後のことである。田中正男君の奥様からの携帯電話。声を詰まらされながら、田中正男君の逝去が告げられた。
ボクは、この時が近いことを薄々は感じていたのだが、不死身の田中君のことだから、まだまだ頑張るに違いない、もしかすれば病を克服して元気な姿を取り戻すのではないかと淡い期待をもっていた。

奥さまからの電話で、てっきり正男君が電話口に代って、新しく造ったスピーカーを聴きに来てほしいとの催促かなあ?とも思い、反面・・もしかしてと身構える思いも湧きていた。・・・「実は一昨日の金曜日に、夫が他界しました。」・・・・ボクはとっさになんと声をかけたらよいのか言葉が浮かんでこなかった。<ご愁傷さま>なんて陳腐な常套句を掛けるのは憚られたし、<お気を落とさずに・・>なんて言葉も出てこない。やっと、「奥さんも、子供たちも、彼の残された人生の分だけ長生きして、助け合って頑張ってね・・」と云ったような気がする。

田中正男君、昭和23年の生まれだったような。ボクより一年下。ボクが真空管の喫茶店を開いてすぐにHPを見て駆けつけてくれたお客様だ。音の闇市と云うJAZZを楽しむ会を始めた初回からの常連客だった。それから、音楽好きな子供さんを連れて家族五人で遊びに来てくれたり、ボクも彼の家に数度と訪れ、彼の自作のアンプやスピーカーを、ワイングラスを傾けながら試聴して楽しんだ。まる三年の短いお付き合いだったが、趣味を通じて意気投合した生涯の友人の一人だった。

彼が末期のガンを宣告されたのは、一昨年の秋だったような気がする。その前から、痔が激しくてと悩んでいたのだが、突然下血が止まらなくなり、緊急入院した時は直腸がんが進行して、すぐに人工肛門しなければならない状態だった。
彼はそんな状態でも暗い顔を見せず、明るく振舞って、音の闇市に復帰してくれた。転移も何とか小康状態を保ち、病気を克服したかに思えたのだが、昨年秋に店に奥様と遊びに来られ、店を早仕舞して近所の割烹でかなり飲んだ。そのあとスタンドバーで三次会までしてしまった。その翌日、彼は緊急入院し、頭に転移したガンの除去手術を受けたのだ。頭の転移の予兆は感じなかったようだ。
ガンで体の節々まで冒されたにも関わらず、痛いとも、弱音を吐かず、最後まで明るく振舞う姿に、ボクは感動して勇気を貰っていた。

5月11日(土曜日)、第18回目の音の闇市が開かれた。
本当は4月13日のボクの誕生日に行う予定だったのだが、日延べしてこの日になってしまった。田中君にも連絡しなければと思いつつ、無理をさせてはいけないと連絡はしなかった。すると数日前にHPを見た田中君から、「是非出たいからいいかな?」と電話があった。「無理すんなよ。元気になってから来てよ。でも当日の様子で、調子が良ければぜひどうぞ」・・「大丈夫・・行けるよ・・」

当日。5時半過ぎに彼は奥様とタクシーで西八王子から、誕生日ケーキを持って駆けつけてくれた。
それは想像を超えるほど痛々しい姿だった。彼は気丈に、「こんな頭になっちゃった」と薬で禿げあがった頭を帽子をとっておどけて見せた。彼は気丈におどけて見せたのだが、痛々しくて見ていられない思いだった。しかし皆さんは彼を気遣いながら、過剰な気遣いは却って本人を傷つけるから、いつも通り会は楽しく進行し、彼はビールも、ウイスキーも、ワインも飲んでいたようだ。3時間半の長いパーティーも彼は中座することなく、気力で耐えていたのだろう。最後まで付き合って、歩くのもやっとの思いでタクシーを呼んで、雨の国立を後にした。握手して別れたが、その手に力はなかった。精も根もつき果てたような姿を見せていた。こんな男じゃなかったのに・・
翌々日、電話で話したのが最後だった。「もう行けないから、家に来てよ。スピーカー造ったんだ。是非、聞いて欲しいんだ・・」いつもの元気な声だったので一安心。

18回目の音の闇市から2週間後、田中正男君は他界してしまった。
田中君。最後まで音好きで、JAZZ仲間と一緒に居たかったんだね。生きるって明るく頑張ることだって、ボクはあなたから教わった。短いお付き合いだったけど、生涯の親友だった。お疲れ様でした。安らかにお眠りください。これからも音の闇市に、闇の世界から是非参加してください。HP見てね。待っています。

ルーツを辿ることは、川の流れを遡り、山奥の源流の水のしずくをすくい取る行為に似ている。川は樹木の小枝のように枝分かれし、どれが本流なのか、その源流を極めるのも容易ではない。家系も同様で、様々な流れの果てに、現代の我々が生息する。
天皇家のように万世1系に集約される家系は珍しく、血脈として始祖から繋がる家系はまず皆無と云ってよい。つまりは、多くの現代人はどこの馬の骨の末裔なのか得体が知れない混血児なのである。

日本では男子継承が一般的だが、男子が生まれない場合や、不慮の事故や病気で絶えるケースが必ず生じる。そこで女系血脈で繋いだり、全く無縁の者からの養子縁組で家系を繋いでいる。
最たるものは、江戸時代の大名家である。徳川将軍家が産んだ数多くの庶子が、大名家に押し込まれる養子縁組の家系相続が頻繁に行われ、血脈と云うDNA遺伝子の家系で継承するケースは極めて稀となる。家臣にしてみれば、お家第一、我が身の安泰のためには、主君のDNAなど養子継承で擬制されたニセモノでも構わないのだ。ましてや将軍家の落しダネともなれば、お家はより権力の中枢に近づく訳だから、有りがたい話である。

日本の社会では、血脈よりも家系継承が最近まで重んじられてきた。
家系の相続は、その家に付属する身分・財産権・一家を養う義務を世襲相続するからだ。だが現代では、世襲で親から身分・財産を世襲継続するのは、歌舞伎役者や、お寺の坊主、はたまた政治家くらいのものである。
ましてや、戦後に嫡男相続が否定され、子は男女平等に均等に相続権が生じてしまった。家系の継承など何の利益も生み出さない仕組みなのだ。
氏姓を継承する意味も、家を守る意味も全く無くなってしまったのだ。ましてや親の養育の義務など糞喰らえなのだ。義務など果たさなくても、相続権は平等に与えられている。
近郊農家などは、地価が異常に上がったので、相続する際の遺産放棄は稀で、兄弟げんかの果てに、唯一残された土地を売却し分割相続するケースが増えている。いまや家系ルーツなどは、無意味な遺産となってしまった。ゆえに氏姓などは、庶民にとって他人と区別する符号みたいなもので、夫婦別姓でも、少女Aでも、女囚701号でも構わないのだ。

そこで我が家の家系が蘇我稲目に繋がろうが、どうでもいいことだし、何の恩恵もない。
強いて言えば、蘇我氏は古代天皇家の外祖父の立場にあったから、ボクのDNAの中には、天皇家につながるDNAが必ずや含まれていることぐらいだろうか。それは、ちょっとばかり我が家系に誇りをもってもいいんじゃないかと密かに自慢したい気持ちもない訳じゃない。天皇家の家系が絶えるなら、わが家系から立候補したいくらいだ。

我が家系が蘇我稲目に繋がる状況証拠は、北陸最高の神格を与えられた気多神社の世襲社家だった点である。中世以前の古文書は、戦国時代の動乱により焼失してしまったが、室町時代以降の世襲の記録は連綿と残されている。特に前田利家の能登入部以降の記録は、詳細に古文書に記され、三巻の<気多神社櫻井家文書>として発刊されている。古代から世襲神職で家職を受け継いだ特殊な家業の一族だったことは疑いえない事実なのだ。

櫻井八家は、聖武天皇から与えられた<気太君>の姓(かばね)を、戦国期まで大切に継承してきた家系図も残されている。気多神社周辺の古代史を考古学的に分析すると、古代最大の官窯製造所の和泉泉北・陶邑(すえむら)から、専門陶工が集団移住し、北陸初の官窯製造所が気多神社に隣接して開始された遺跡群が残されている。これら官窯の古代の成立に、蘇我系櫻井朝臣の関与が、文献史学と考古学の両面から立証される。

この櫻井朝臣は、記紀に<推古二十年(612)、皇太夫人蘇我堅塩媛を檜隈大陵に改装した時、大臣蘇我馬子は、八腹臣を率いて参列>とあり、蘇我本宗家から枝分かれした蘇我主要一族だったことも記録されている。
以上のような歴史の経緯をだどれば、我が祖先は、6世紀中葉に蘇我稲目を源流とすることは、先ず間違いない事実だと考えらえます。将来蘇我氏系DNAの鑑定団でもあれば、ボクの血の一滴を提供したいなぁ~と思ってるんですが・・・楽しみです。

ヤマト王権の古代レガリア(権威の象徴)とは、何でしょうか?
天皇家なら、三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣))だと云うことになっています。
古代における鏡は、景初3年、魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとされる三角縁神獣鏡が、邪馬台国の建国の象徴とされている。勾玉は、縄文時代から古墳時代まで続く日本列島のシャーマンが身につける霊力の象徴です。
草薙剣と云えば、スサノヲ命(須佐之男命)が出雲国で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)の 尾から出てきた太刀だとされ、その後は神武天皇東征・ヤマトタケルの東征などにも登場する。草薙剣は、ヤマト王権が出雲王国から神宝を引き継ぐ正統なる継承者の証だったのです。

<鏡・勾玉・剣>は、天皇(大王)家を頂点と仰ぐ日本列島統一国家の象徴であった。いわくつきの神宝を所有することが権力者の権威の象徴であり、そのレプリカが大王から各地の豪族の族長に分け与えられたのである。そのレプリカを数多く所有することが、地域主権を担う支配者の権威を高めた。

天皇家においては、これを万世一系で受け継ぐことが神聖カリスマ性の継承だった。
ところが在地の族長は、子孫代々にこの<鏡・勾玉・剣>を継承させず、一代限りで、亡くなると黄泉の国のお供として古墳に埋葬されてしまった。そして新たなる族長の権威の象徴が、ヤマトの大王(天皇)から授け渡され、在地の族長の座を保障される仕組みが出来上がっていった。これがいわゆる古墳時代と総称される古代王権の祭政一致政治のメカニズムである。そこで大王家ではレプリカ造りの専門工人を部民として抱えることになった。

古墳時代は、出雲に発する四隅突出型墳丘墓を母体にして、前方後円墳や円墳・方墳など大規模な古墳造営をもって、強固な地域支配の象徴とする時代である。
そこには、<鏡・勾玉・剣>以外に、多数の須惠器と呼ばれる陶質土器を埋納することが葬送の儀式で欠かせない祭器となっていく。須惠器は、族長の座を引き継ぐ地域支配者が、亡き族長を饗応し、饗食する一種の権力移譲の儀式に欠かせない道具であった。それゆえ須惠器は、日常の食器には使われず、葬送の儀式が終わると、古墳に埋納されてしまった。

実はここからが、我が家系の本題である。
古墳から大量に見つかる須惠器は、日用品ではなく、非日常の権力移譲の際にだけ用いられる特殊な土器として、朝鮮半島を経て日本に導入された。しかもこの陶質土器は弥生式土器や、古墳時代に日常家庭用品だった土師器(はじき)と異なり、斜面に登り窯を築き、1100度以上の高温で還元焔焼成する特殊技術が必要だった。
この特殊陶器を造る専門工人たちを一か所に集中させ、ヤマトの豪族や地方の族長に下賜したのが古代ヤマトの統治支配構造だったのである。ヤマト王権では、陶邑と呼ばれる一大須惠器製造工場を、大阪和泉泉北丘陵に築き、古墳時代が尽きるまで千基以上の登り窯が築かれる。その陶邑の中心地を高倉と呼び、そこに陶邑を統治した櫻井朝臣を祀る櫻井神社が建立されている。

古代史によれば、蘇我系櫻井朝臣は、ヤマト王権の下で、須惠器専門工人集団を束ね、燃焼用の薪炭用の山林の管理・食料の補給・貯水池の管理など陶邑の治安・行政を司る長官であったとされている。
大阪には、この泉北地区の南部・陶邑窯跡群のほかに、豊中から千里丘陵にかけて、北部古窯跡群が存在する。この南北の古窯跡群が、日本最大のヤマト王権の官営製造所(官窯)だったのである。
この北部古窯跡群は、豊中市の櫻井谷古窯跡群と吹田市の吹田古窯跡群を総称するもので、本邦最大の陶邑の古窯跡群の燃料用の薪炭資源が枯渇したために、櫻井朝臣と陶工が集団移住されたと推測されている。

ヤマト王権では、急増する古墳造営の供給ニーズにこたえるため、この須惠器製造技術を地方に普及させる一国一窯制度を採用した。
越の国北陸で、最古の5世紀にさかのぼる須惠器製造が始まったのが、能登半島気多神社が鎮座する眉丈丘陵である。中でも、気多神社に隣接する柳田ウワノ一号窯は、その製造技法から、和泉泉北陶邑の陶工が直接移住して製造を開始したものと考古学者は推定している。

話が少し専門的になってしまいましたが、気多神社の神職櫻井氏が能登に移住する背景には、古墳祭祀に不可欠な須惠器製造と不可分の関係があったことです。つまりヤマト王権の一国一窯制度を普及するために、北陸に移住した陶邑櫻井朝臣の一族だった。
地名・神社・氏姓に残された古代の痕跡をひも解くと、気多神社櫻井氏のルーツは、かくの如く和泉泉北・高倉の櫻井神社に行きつくのでした。

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古代史は語れば語るほど、興味のない方には睡眠導入剤の役割しか生じない。
趣味とはそうしたもので、村上春樹のように3日で百万部も売れるような大衆小説にはなり得ないのです。
その上もっと悪いことには、専門知識が有り余っているから、つい深みにはまって、門外漢にはチンプンカンプン。本人は意気揚々と更にゴタクを述べて煙に巻く。

司馬遼太郎がそうだった。
初期の<梟の城>や<尻啖え孫市>の歴史小説の時代は、創作性に富んでいて読者を空想の世界に誘ってくれた。それが<坂の上の雲>を頂点として、いわゆる司馬史観とでもいうべき抹香臭い価値観がフンプンと漂い出し、歴史的事実と創作を巧みに操るものだから、歴史家からは事実誤認がしばしば指摘されるようになっていた。
小説とは、人間の内面描写を描くものだが、司馬遼太郎は、余談と断りながら史実を挿入する手法を多く取り入れ、本人の価値観を語ることに紙面を費やすようになっていく。こうなると大衆歴史小説ではなく、歴史ルポライターである。その最たるものが<街道を行く>シリーズとなって完結する。司馬遼太郎は、心自由にフィクションの世界では遊べなくなってしまったのだ。

歴史の中に埋もれたミス・リンク。<失われた環>を繋ぐことが歴史をひも解く醍醐味なのだ。
歴史家で重要なのは、推論ではなく、事実を実証することである。過去の論文を引用する際には、必ず孫引きではなく,原文に目を通し、誤用を避け、出典を明らかににするのが学界のルールである。古文書であれば、原文を確認するか、読み下し文の出典を明記せねばならぬ。
出典の不確かなものは、<作文>とみなされ、評価の対象にも、他者からの引用もされない<創作歴史>で消える運命にある。実は本屋に並ぶ歴史書には、このたぐいの筆者の思い込みが多いのである。
司馬遼太郎もそれが解っているから、つい文中に史実の但し書きを付けることが多くなり、ついには創作部分を加えることが躊躇(ためら)われるようになった。これでは物語は描けない。

ボクが書き遺す<気多神社と櫻井家>についても、創作を排除し、世に公表されていない史実をお伝えしたいと思うのだが、それでは読んでいて面白くもない。
<事実は小説より奇なり>でもなければ、<世にも不思議な物語>でもないからだ。<鬼面人を驚かす>ような事実もないから退屈でしょうが、我が家のルーツの事実だから残しておきたいと思うのです。

明治に創作された系図は粉飾されたものが多い。だが我が家の系図は神職と云う、特殊職の性格と、北陸ただ一つの延喜式内大社だったこともあり、世襲で継承されていた事実が残されていた。従って系図と云っても、古文書としての歴史的価値は高いのである。

古代編で、過去に出版された歴史書に書かれていない新事実は、能登一宮気多神社の世襲神職が、<櫻井気太君>の複姓を継承してきたこと。これは明治になるまで一子相伝で受け継がれた櫻井八家の<系図>で明らかになりました。
その<気太君>の由来が、聖武天皇の妃、光明皇后に仕えた高級女官と同時に与えられた一族八家の姓であったこと。続日本記の記録で、天平一七年(745)と年代が一致すること。内命婦<気太君十千代>が、櫻井神職家の娘であったことでしょうか。

つまり、気多社家の櫻井氏は、西暦745年以前の古代から、能登の地で神主を継承してきた一族だと立証できたことです。

では古代神職として、ヤマト王権から派遣された櫻井氏が受け継ぐ聖職者のレジティマシー(:legitimacy正統性)とは、なにに由来するのでしょうか?
次回は、ますます眠たくなる世界に突入します。

写真は千里浜から上がる気多神社一の鳥居です。ここから寺家部落を抜けて参道が続きます。

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天平時代は、聖武天皇が遷都を繰り返し、世は東大寺造営に財力を傾けていた時代だった。万葉集を編集した若き大伴家持は、天平18年(746)、二十才半ばにして、従五位下に叙せられ、能登国を併合した越中の国司に任ぜられた。
越中の国府が置れた富山県高岡市伏木には、国司が毎日遥拝するために、羽咋の気多神社から分祀され、越中気多神社が建立されていた。そんな時代に、能登気多神社櫻井家の娘は、越中国司と同格の従5位下を与えられ、光明皇后のおそば近く高位女官の一人として仕えていたのである。

東大寺造営資金は、越中国内の荘園からの貢納が他国を圧倒していることが記録されている。
国司となった大伴家持は、この造営資金調達のために精力的に能登巡行を行い、その皮切りは、天平20年(748)4月、能登の大神、気多神社への参拝であった。東大寺の造営には、神のご加護が不可欠の時代であったからだ。
能登の気多神社には、周辺に寺院が建立され、<気多太神宮寺>と称する時代に入っていった。以来神仏習合は、明治維新による神仏分離令・廃仏棄釈まで千年以上も続いたのである。

気多の大神に参るのに、浜辺を行った時つくる歌一首

之乎路(しおじ)から直(ただ)越えくれば羽咋海
    朝凪したり 舟かじもがも (万葉集4025)  大伴家持

大伴家持は、能登の大神からの神威を得て、国司としての役割を全うし、全国ランクNO.1の東大寺造営資金カンパを得る成果を挙げたのである。

写真は、気多大神宮寺の一つで、唯一現存する正覚院の門柱。
神仏分離令が発布される明治時代以前は、加賀藩から350石が安堵され、75石が神職に、75石が僧侶に分け与えられていた。
気多神社には、神職以外に、座主職を頂点とする僧坊を構成する薬師院・不動院・地蔵院・明王院・正學坊など衆徒方の組織があり、社家(神職)と寺家(僧侶)のあわせて五十一家が、惣中のしきたりを守り、気多神社の運営管理にあたっていた。

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能登の国、気多神社の櫻井八家は、都に登って立身出世する気多(太)十千代を、一族を挙げて支え続けた。その功績により、従五位下と気太君の姓(カバネ)を聖武天皇から授かった。以来、気多神社の櫻井大宮司家は、宮中から従5位下の位を授かるのが近世まで慣例として続いていた。
気太君十千代は、さらに天平宝字四年(760)五月に従五位下から正五位上を授かり、<内命婦(みょうぶ)>の地位に就いた。地方出身の女官としては異例の出世で、中央貴族・王女の列に加えられたのだ。十千代は、光明皇后が指揮する皇后宮職として、東大寺造営の写経所にしばしば顔を出している。

地方豪族から宮廷に参内して勤める女性は、一般に<采女(うねめ)>と称された。だが国司と並ぶ地位にあった気多神社の神職家から選ばれた才女は、はじめから采女の上位職の<女孺(じょじゅ・めのわらわ)>で参内したから、ここまで異例の出世を遂げたのであろう。
当時の宮中慣習で、女官の賜姓ともに一族にも同時賜姓の名誉が与えられる例は、その一族が天皇家の皇族の子女の養育を担い、その皇女・皇子が役職に就いた際に、養育の功績を讃えられ、叙位叙勲される慣例になっていた。
気多神社が管理する皇室直轄領地は、能登半島一帯に<気多神宮領>として、邑知潟平野から奥能登まで広がっていた。この能登半島の経済力が気多十千代を都で活躍させる資金源だったのだ。

では気多十千代とその一族は、当時どの皇子の養育に関わっていたのだろうか?
それをひも解くカギは<気多(けた)>である。当時の皇子・皇女の諱(いみな)は、養育に携わった部民集団の呼称を名乗っている。十千代は、<気多神宮領地>を代表する女官だったので、出生の櫻井姓ではなく、<気多(太)神社>に因む姓が新たに与えられなのだろう。
それでは<気多>を名乗る皇子・皇女は、実際にいるのだろうか。存在しても、気太十千代と年代が一致しないと関連性は薄い。

調べてみると、古代の皇室で気多を名乗る皇子は、二名いたのである。

〇慶雲元年(704)従四位下に叙せられた気多王。
○天平神護二年(766)従五位下に叙せられ、翌年、鍛冶正(たんやのかみ:宮内省に属する製銅・製鉄を管理する長官)に任ぜられた気多王。

気太君十千代が関わった皇子は、年代的な整合性を考えると後者であったと考えられる。
この気多王は、続日本記によれば、桓武天皇の生母、高野新笠(790年没)と、桓武天皇皇后・乙牟漏(789年没)の葬儀の際の御葬司(葬儀委員長)を勤め、造斎宮司・中宮御葬司・皇后御葬司など<巫女王の誕生と葬送儀式>にかかわる皇室の祭祀・儀礼長官の役割を担っていた。
北陸随一の気多神社の祭祀族櫻井氏が育て、支えた皇子として、なんとも相応しい皇子の役割ではないだろうか。

ところで、能登半島に派遣された蘇我系櫻井朝臣とは、どこを本拠とした古代豪族だったのだろう?その謎は次回のブログで解き明かしたいと思います。

写真の古文書は、明治4年に明治政府の調査に出された下書き文です。江戸時代末期の気多神社神職が列記されています。左欄が往古の職席。右欄が明治3年1月の神職一覧です。大床と称す上位神職は、櫻井八家から六家となっています。私の曽祖父の名前もこの中に含まれています。

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北陸は、その昔・むかし、<まつろわぬ越(コシ)の国>と呼ばれていた。<まつろわぬ越の国>とは、国家の命令に服従しない蝦夷(エミシ)の国と云った意味である。
そのころの日本は、<邪馬台国>から<ヤマト>の国と呼称を替え、箸墓古墳一帯の纒向(マキムク・奈良県桜井市)にはじめての統一王国が樹立されていた。<邪馬台国>が、このヤマト纒向を首都とするのか、九州にあったのか、はたまた出雲だったのかは、古代のロマンの中に埋もれたままだ。
ともかくも、現代に途切れず続く日本の古代王権にとっては、まつろわぬ北方蝦夷を従属させ、日本列島を統一国家に替えることが頭の痛い最大の政治課題だった。

その蝦夷の国に、ヤマト型の古墳を象徴とする支配構造を持ちこみ、越の国の橋頭保とされたのが、能登半島に鎮座する気多神社だった。当時の政治は、祀り事すなわち政り事。祭政一致が政治の根本であった。国家が祭祀する神を従わぬ蝦夷たちに信奉させることが、統一国家の国民の支配と従属の証だったのだ。
気多の神は、能登の国(羽咋・七尾)を皮切りに、越中の国(伏木)・越後の国(直江津)へと北進し、それぞれの国の守護神と崇められた。
この気多神社の本社神職として、ヤマト王権から派遣された祭祀族は、蘇我氏直系の櫻井朝臣の家系であった。・・と、明治政府により神職を追放されるまで、50数代も世襲神職を継承してきた上位神職櫻井八家の系図に残されていた。(ブログ前篇参照方)

気多神社の上位神職が櫻井八家に固定されたのは、天平一七年(745)のことだから。1268年前のことに遡る。この年、聖武天皇は紫香楽(信楽)宮に遷都し、その正月の行事で、遷都に従う女御・女官26名の功績を讃えて、叙位叙勲を与えたのである。詳細は当時の国記(国選歴史書)である続日本紀に記されている。

その中の一人が<気太君(けたのきみ)十千代>であった。十千代は、正六位下から従五位下に格上げされ、二年後の天平一九年に、聖武天皇から<君>の姓(カバネ)を与えられた。<君>の姓は、古代王権の国造(くにのみやっこ)や、在地の部民(べみん)を率いる地方の伴造(とものみやっこ)の地位にある者に与えられたカバネである。その多くは、祭政一致の時代から、祭祀が分離された時代の有力神社の神職家に与えられている。
十千代と共に、櫻井一族八家は<気太君>を名乗ることが許された。以来、気多神社の上位神職八家は、<気太君櫻井>の姓を複性で名乗ることとなり、そのいわれを系図に残して氏姓継承してきたのである。
この習慣は、戦国末期まで続いていたが、能登半島が織田信長に平定され、前田利家が能登入部した際に、<櫻井姓>だけに戻している。京都を本拠とする能登国守護大名の畠山氏の滅亡とも期を一にする変革期であった。

ところでなぜ気太十千代は、地方出身出にして聖武天皇後宮の高級女官・内命婦(うちみょうぶ)まで出世したのだろうか?
聖武天皇の皇后は、あの正倉院を残した光明皇后である。妃は、藤原不比等と縣犬養(あがたいぬがい)三千代の娘に生まれた。皇室最初の皇族以外から皇后となった方である。当時の皇室を一手に仕切っていた女性が、縣犬飼養三千代であった。気太十千代は、三千代に気に入られ、光明皇后の入内とともに、皇后付き女官として皇室に勤めることになった。

当時の女官の役割は、後宮の雑務を司る女中ではない。王家の子女の養育を任される乳母の役(壬生部と称され、後世の貴族の荘園のような存在)を任されたのだ。乳母を任された豪族は、一族を挙げて献身的に皇子や皇女を支え、その皇子・皇女の立身出世が、支えた豪族の繁栄にもつながる仕組みであった。能登半島一帯の皇室領の管理を任された気多神社神職櫻井一族は、能登の財力を持って王族一家の経営を支えたのである。こうした皇室直轄領から皇室に上納する慣習は、全国でも珍しく、江戸時代後半まで能登半島から櫻井神職家を通じて続けられてきた。

次回は、気太君櫻井氏が、養育を担った皇族について触れてみたいと思います。

なお、戦国時代から江戸時代初頭まで櫻井大宮司家で保管されていた古文書は、気多神社文書3巻にほぼ納められています。江戸時代中期以降は故あって公表されていませんが、加賀騒動との関連の謎をこのブログで明かしていきたいと。

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