団塊の来し方行く末

昭和22年団塊世代。 緑内障が進行し、誤字脱字・誤変換が多いブログですが、ご容赦ください。 オーディオ好きが高じて、定年後に音楽喫茶を開店して11年です。 ジャズ・オーディオ雑誌にも何度か掲載された音の良い隠れジャズ喫茶でしたが 2020.3月に閉店しました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。

2012年02月

目下のところ喫茶店の営業は、週3休4勤体制である。
営業時間は2時~7時半まで。月の営業が15日程度だから、1カ月フルに働いて67.5時間。といっても、6時半までにお客さんが見えないと、いそいそと閉店してしまう。実質の勤務時間は月60時間未満。目標は40時間程度。会社員時代の2~3割程度の労働である。

更に、勤務地までの移動時間は、1分もかからない。その上に、待機時間は奥の事務室で居眠りに、パソコン相手のツィター三昧だから、隠居のヒマつぶしには恰好な職場である。
職場と云っても、実質的な労働対価はゼロである。そればかりか、電気代・消耗品代を考えると、大幅な赤字である。開業前は、家賃相当分くらいの収入を最低限と考えていたが、とんでもない誤算だった。正直なところ、場所は無償提供。むろん労働対価は無限にゼロにちかい。

集客人数は、あまりにも少ないので恥ずかしくって公表できない。事業と云うより、ボランティアー活動の一環で、音楽を聴く場を設けているとでも納得しないと、アホらしくて続けられない。事実、団塊世代の時間つぶしの場を作りたい一心で作った店だ。もはや少しでも年金の足しになどと云った邪念は消えてしまった。
それでもあるお客さんは、<NORIさんはいいな。趣味でやってるから・・・><え?こんなに安くていいの・・>と云うのだ。それが毎回となると嫌味に聞こえる。
そんなときボクは、半ば冗談、半ば本気で、<安いと思われるなら、倍でも3倍でも、チップを払っていただいて結構ですよ・・・>と返すのだが、お客様は、釣りをきっちりともらって帰っていく。

ボクは別にチップを当てにして経営しているわけでもなし、チップをいただいたところで、いかんせん絶対的に集客数が少ないから焼け石に水である。<同情するよりカネをくれ!>なんて、チンケな気持ちは、これっぽっちも持っていない。
同情いただくなら、毎日でも遊びに来ていただくのがうれしいのだ。そのために料金は抑えている。
常連のNさんは、そんな気持ちを察してくれる方である。いい店だから続けてほしと、毎日のように寄ってくれる。ボクもうれしくて、ウイスキーダブルの大盛りをサービスしちゃうのだ。

考えてみれば、シーバース12年ダブルで550円は安いし、ワインダブルの550円も安いに違いない。珈琲だって作り置きじゃなくて、1杯1杯こだわりの豆を手製でドリップする。お茶を立てる要領である。繁華街なら間違いなく倍はとるだろう。

仕入れ原価に相応した高い値段設定にしない理由はある。
問題は店主のサービス精神なのだ。きちっと蝶ネクタイもしないし、態度も洗練されていない。お客さまを<御主人さま。お帰りなさい>などと、媚びた愛嬌を振舞うわけでもない。卒サラの無粋なジジイの店なのだ。そこを割り引くと、こんな価格が妥当だろうと納得している。

安いからと云って、安物を仕入れているのでもない。自分で飲んで満足するものをお出ししている。紅茶だって、デパートに出店するLUPICIAから、ダージリン、セイロンウバを正規料金で仕入れてくる。それで2杯はとれるポットに入れて600円。使用するカップはウエッジ・ウッドかロイヤル・コペンハーゲンである。カップをケチっては折角の飲み物も美味くない。
ミルクだって、クリープなんて使わない。純正の生クリームである。紅茶には生乳。1週間しか持たないが半分以上は残る。自分では太るので飲まない。第一に珈琲に生クリームはボクの趣味ではない。もったいないが、残りの牛乳は庭に撒いて肥料代わりに消える。
お客様には、優雅な気分で、すこし儲けた気分で、音楽を楽しんでいただきたいのである。

それで、気の毒に思うのだろうか。ときどき釣りはいいよって、お釣りの50円をチップ代わりにおいてくれる奇特なお客様もいる。そんな時はありがたく頂いておく。こんな店だから、おカネもなんだからと思うのだろうか。いろいろな差し入れもいただく。それもうれしい。
今はおカネに代えられない人間関係が、店を続ける原動力で楽しく働いている。

しばらくブログから遠ざかってしまった。やはり惰性でも毎日続けていないと、気力も湧いてこないし、日常のかすかな変化にも感性が反応しなくなる。
定年退職してから急速にボケるのは、この義務となった毎日の惰性から解放され、空白の時間の中に投げ出されるからだ。サラリーマン時代は、なんだかんだと言っても、達成すべき目標があり、たとえそれが自分の人生とは無縁のカネ勘定であっても、やりとげる満足感が残ったものだ。

団塊世代も、一期生のボクらが今年は65歳に達し、あてどない放浪の人生に身を置くようになってしまった。行き先は云わずと知れた墓場までのラスト・ランである。
マラソンのランナーを思い起こすがよい。35キロを過ぎ、せめぎ合ったライバルを振り切り、ぶっちぎりでテープを切るもの。最後の最後までデットヒートの接戦を制した勝者。屈辱にまみれてゴールを跨ぐ敗者。足を引きずりながら最下位で通過する落ち武者。・・・ともかくもサラリーマンにとっては、定年とはマラソンのゴールに似ている。

ゴールに着いて、ばったりと息絶えるのがランナーの目標なのだろうか?
何のために辛くて苦しいマラソンを走るのか?東京オリンピックで銅メダルを獲得した円谷幸吉と云うランナーがいた。団塊世代以上なら誰しも知っている自衛隊が育てた勝つことを義務付けられた宿命のランナーである。メキシコの金を目指す中、27歳の1月9日、自衛隊宿舎の中で頸動脈を切って自殺した。
遺書には、
<父上様母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿ももちも美味しうございました。・・・・父上様母上様、幸吉はもうすっかり疲れきってしまって走れません。何卒お許し下さいませ。・・・幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。>と、あった。

思い返せば、サラリーマン時代の、<美味しゅうございました>と感謝する場面も少なくはない。だがしかし、これから目指すゴールは、何を<美味しゅう>と感じる人生なのか?これからは挫折することもないし、苦悩もないのだ。美味しさだけを貪ればよい。
乏しい年金の範囲内で、世間に迷惑を掛けぬように、ただただ好き勝手に生きればよいのだ。そう云われても、そこで・・・人はハタと困るのである。与えられた目標を失って、自らの目標設定ができぬまま、ブラブラと過ごす。
それが怖くて、今までの惰性を続けようと再就職の口を探す。だがもうほとんどは空しい徒労に終わる。高齢者の特徴もないサラリーマンに愛の手を差し出す会社なんて先ずないのだ。再就職できるような人材なら、定年まで在籍していた会社が、もっと働いて欲しいと頼むに違いない。

かくして、目標もない在宅待機の隠居生活が訪れる。
最近、そんなボクと同年代の初老男性が町に増えてきた。何せ団塊は各年代二百万人以上の人口である。これがいかに多いかは、昨年の出生が107万人だから、倍以上の人数なのだ。それが行き先の当てもなく、町を徘徊するようになってきた。

こんな現象は、とうに予想されていた。にも拘わらず、なんの対策も打てずに団塊は老いてしまった。イソップ寓話で云うならば、団塊はキリギリスである。蟻のように働いて稼ぎを老人につぎ込んだにも拘わらずにだぜ。その年金原資は、社保庁の役人のムダ遣いと政治家の失政で蓄積されなかった。俺たちが老人に貢いできたように、若者に貢いでくれと頼んでも、背負いきれないと断られる。蟻さんだと思っていたら、突然にお前らはキリギリスだと宣告されてしまった世代なのだ。

65歳になって<父母上様の側で暮らしとうございました。>と思いたいが、それならこの世と縁を切るしかない。父も母もこの世にいないからだ。それに生きていたら介護の世話で大変だろう。
ボクは親を背負うことも無くなった。もう少しだけ<この世の側で気楽に暮らしとうございます。>と思いながらブログを書いている。

オザワは
<野田首相にはもう一度、政権交代の時の原点を思い起こしてほしい。消費税の論議が別に悪いと言っているんじゃない。やっぱり、約束した物事の筋道、順序がある・・・歌を忘れたカナリアは、我々ではなく、あの人たち(首相を含む党執行部)だ。忘れた人たちが離党すればいい」と語ったそうだ。
たいして野田総理は、<過ちては改むるに憚ること勿れ。>とマニフェストとの齟齬については、婉曲的に過ちだと肯定し、消費税増税にまい進している。

ボクは野田を応援したい。
政治家なら、増税を語ることが国民の大反発を受けるのを先刻承知なのだ。その上で、あえて増税を柱に国を立て直すと言い切る信念は見上げた根性ではないか?

確かに民主党は、バラ色の将来像をマニフェストに描いて見せた。その財源は、自公によってシャブ漬けされた特別会計に切り込み、<コンクリートから人へ>の転換を計れば、ねん出されると、ボクだって思い込んでいた。
ところがどっこい、蓮舫が金切り声を張り上げてパフォマンスを見せたところで、ゾンビのように官僚たちは生き返り、小娘はたやすく跳ねのけられてしまった。
明治維新から140年。日本国は政治家が国を動かすのではなく、盤石で優秀な官僚により統治されてきた国であったといっても、過言ではないだろう。そん所そこらの帰化人の小娘に、たやすく切り崩されるようなものであっても困るのだ。
自公政権もそうだが、アホな政治家が君臨すれども、官僚統治があればこそ、この国は何とか維持出来てきた。それをだ。単純に官僚を敵に回したところで、この国の統治機構は空回りするばかりなのだ。

大阪の橋下は、大阪市政の改革を手柄に、国政に切り込みと意気込むが、大阪市のこっぱ役人相手と、東大を頂点とした学歴社会に揉まれた高級官僚では役者の格が違うのだ。簡単にこの国の仕組みが替えられるとは思われぬ。地方でできても、中央は簡単ではない。

さりながらこの国の抱える悩みは深い。
少子高齢化・デフレ脱却・景気回復・安定雇用・財源確保・国の借金・年金問題・・・・その解決策については 百家争鳴、右と云えば左と云う。そうこうして対策も講じられず、行政と民間会社の頑張りに依存して経済はなんとか保たれてきた。簡単に言っちまえば、政治家不在でも、この国はやっていけたのだ。

政治家は何をしてきたのか?
疲弊するばかりの農業政策。アジアの台頭に押されっぱなしの中小企業。円高。デフレ。貧困格差・・・なにか明るい材料が政治家から生まれてきただろうか?

野田が<過ちては改むるに憚ること勿れ。>と気付いただけでも立派じゃないか?と思ってやりたい。
政治家・官僚・国民それぞれが痛みを分かち合って、この国を立て直すしか方法はない。むろん政治家と役人は率先して大幅なカットは当然だが、いかんせんマスが小さいから効果は少ない。財政再建には、何といっても一番の大財源である国民が頑張るしかないじゃないか。

オザワのように、いつまでも色あせたバラ色の紙ペラに拘わり、オツムの硬い老人は、国民が引退の引導を渡すしかない。ボクはあえてタブーに挑戦する野田を見守ってやろうと思うのだが・・・・

昨日は八王子のTさんが友人を連れて来店。
2時からギネスに水割りである。こちらも負けずにワインで参加。そこに常連さんも3人ほど加わり楽しく時間が過ぎました。

最近常連さんになられた女性の方からは、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲のリクエスト。7・8枚ほどあるLPの中から、フルトヴァングラー指揮ベルリンフィル、メニューヒンのバイオリンをチョイスされる。そこに新たらしいお客様が来店。マンデリンを注文され、真剣に耳を傾けている。静寂な時間が流れる。
ジャズタイムなのだが、クラッシック好きの方々なのでアルビノーニのアダージョを掛けてみる。これも6枚ある中で、カラヤン指揮ベルリンフィルを掛けてみた。どうも重くて暗くてバロックの湧き立つような軽やかさが欠ける。カラヤンにかかるとどうも重厚と云うよりも鼻につく慇懃無礼さで、最近は好きになれない。
口なおしに、同じ曲をハンガリーのフランク・リスト室内管弦楽団で聴いてみる。途端にあの優美で甘美な旋律が蘇る。この曲はパイプオルガンの荘重な響きの教会で室内楽団の編成がよく似合う。

新しいお客様が席を立たれ勘定をすます。
帰りしなにどちらからですか?と尋ねると、横浜からだと云う。荻窪の某クラッシク喫茶と吉祥寺のクラッシク喫茶を巡り、当店まで足を延ばされたのだと語られる。それで聴き比べて、わが店のタンノイが最も良い音を出していると誉めていただいた。他店との批評は、当店の自慢話になるので、あえて詳細を割愛する。でも誉められるとうれしいものだ。

話は更にはずみ、お歳をきけば、ボクと同じ22年生まれ。心臓病で余命いくばくもないと診断され手術されたそうだ。ボクは横浜の循環器の内藤先生に通っていたと話すと、彼はいまでも通院されていると。同じ病でもっと重病の方であった。
それで彼は、コレクションされていたオーディオを価値の分からぬカミサンと子供に残しても二束三文で売り払われるに違いない。その前にオークションで処分しようと、100件以上を全て売り払ってしまったそうだ。幸いに術後の経過も良く、しばらくは生き延びられそうなので自作のオーディオを再開したのだと云う。自作オーディオと云えば、八王子のTさんも名うてのコレクター。話は更に弾むのだ。

店を開いていると、ときどき全国の喫茶店巡りの愛好家や、音楽好きの方が遠路はるばると訪れてくれる。経営的には全く成り立たないが、こんな楽しい出会いがあるから止められない。

Tさんと友人は、ギネスと水割り2杯を飲まれ、5時過ぎまで音楽と会話を楽しまれた。ボクも会話に参加したかったのだが、久しぶりの友人との再会にボクが割って入るのもなんだから、店の奥で一人ワインを飲んでいた。
友人の方は大宮からだそうで、60の定年退職をされたばかり。半年ほどまえに胃を半分ほど切除されたそうだ。帰ると云うので、ボクは店をもう閉めるから一緒に焼き鳥屋に行かないかと誘う。TさんはOKだが、友人は胃を切ったばかりで帰りも遠いからと辞退される。友人の方は、今日はタイムスリップした奇妙な空間を漂った感じだとわが店に満足されたようだ。

7時半に閉店のはずが、いそいそと6時前に看板を下ろしてしまった。ボクはズボラで、いい加減な男である。それからTさんと2時間ばかり飲む。
Tさんと別れ、一人で若者が集う西洋居酒屋ダマダマに立ち寄る。カウンターに先客の若い女性が二人。そこに、爺さんのボクが割り込んで、野菜づくりの会話となった。すると一人の女性が、今年から野菜づくりを始めるのだと云う。へえ~どこで?とボクがきくと、同じ国分寺の農園じゃないか!!!しかもその農園の隣のアパートの住人だと云う。
かくして、その若い女性とは友達になることができた。

五木寛之の< 下山の思想>なる新書版がベストセラーらしい。
政治の世界では、AKB48をもじった自殺対策強化月間のキャッチフレーズ「あなたもGKB47宣言!」が、不謹慎との指摘をうけ、お蔵入りとなった。
命名当時の大臣は蓮舫。元クラリオンガールらしい軽いノリで、若者を捉える恰好なキャッチコーピーだと思ったのだろう。広告ポスターの25万枚はオシャカで、費用は300万だと云う。蓮舫の歳費から天引きだよねと云いたい。どうもこの女の行動は、大げさなパフォーマンスの割に成果があがらない。

ところで、くだんの五木寛之の< 下山の思想>の題名だが、五木によれば、これからは登山の時代ではなく、下山の時代。下向きにがむしゃらに登る人生ではなく、ゆっくりと周囲の景色を眺め、豊かに暮らそうと説くものらしい。
いかにも79歳の老人が描く世界の題名には< 下山の思想>はふさわしい。
だが待てよ・・・山を登りつめて、頂点を極めた老人にはそれも良いが、山を登った経験もない若者に<下山の時>とは、GKB47と同じく酷な云いざまではないのか?

確かに、少子高齢化・経済低迷・借金大国・先行不透明の中で、経済中心で発展してきた日本から、<日本が目指すべき道は、思想・学問・文化の熟成させること>、日本にはそれにふさわしい精神文化と歴史があるじゃないかとは、これから老人の仲間入りする団塊世代に贈る言葉ではある。
だがしかし、それで日本は借金地獄から逃れ、ギリシャ化を免れるだろうか?
精神文化と歴史において、ギリシャは西欧文明の先端を担ってきた国である。それがあのザマである。精神文化と歴史だけでは、オマンマは喰えない世の中を直視せねばなるまい。

ここは司馬遼太郎が描く<坂の上の雲>の時代の精神を、日本に再生して欲しいものである。

<まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
・・・明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。たれもが、「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。・・・
社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にもなりえた。・・・・・
かれらは、明治という時代人の体質で、前をのみみつめながらあるく。
のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくだろう。・・・>

やはり若者には、山のいただきを目指し、空の上の一点の輝きをみつめて、明るい坂を登っていってほしいものである。

防衛省は<今後は政治的に中立を守る>と幹部に申し渡したそうだ。
ボクは短絡的だから、バッカじゃないか?と疑ってしまった。なぜなら、警察とか軍隊は、国家権力を守る良き<暴力組織>にすぎぬ。つまりは時の権力者の番犬と云ってもよい存在なのだ。
極論すれば、もしも日本国民が共産党政権を選択したとすれば、共産党を守る義務が警察とか軍隊に生じる訳である。それは公明党が政権をとっても同じである。
従って、その国家の公僕(下僕)どもが、自ずと現政権側で陰に陽に働いたとしても、全く不自然でもなければ、批判の対象でもないはずだ。
悔しかったら、選挙で国民の信任を得て、国家権力を掌握することである。だから、選挙は大切なのだ。

さわさりながら、世の中は本音と建前を使い分けるのが大人の世界とされている。<権力を得たものが軍隊組織を自由に使ってもいいじゃないか。>と本音を語れば角が立つ。死刑囚すら処刑できない法務大臣が続出している。
本当に強い権力者なら、<司法・軍隊・警察>には、抑えられる実力者を配置するだろう。しかるに民主党はどうだろうか?法務大臣・防衛大臣・国家公安委員長の職には、派閥均衡のボケナスばかりを据えてきたのだ。
この党には綱領もなく、国家の危機管理意識が本質的に欠如している。組織の内部統制を欠き、治安が乱れるのも当然だ。

ボクが防衛大臣なら沖縄防衛局長をどうしただろうか?
更迭でお茶を濁すのはたやすい。だが徹底的に護るのである。職員家族まで呼び寄せて講話したことには、遺憾の意を表し本人に厳重注意。それだけである。
国会で追及されても、特定の候補者を応援したものでもなく、重要な選挙なので棄権しないよう、各々の思想信条に照らし合わせて、国民の義務を果たすように職員に諭したと強弁すればよい。

ボクは思うのだ。
創価学会員なら組織を挙げて公明党を応援するだろう。組織に身を置くものは、組織の拡大に努め、防衛するのが本能と云うものだ。それは非難の対象でもない。
だがしかし、ボクは政教分離の原則を護らねばならぬと思っている。心の世界で宗教を信じることは是であるが、政治を借りて自己実現しようと計るのは宗教の道ではないと思っている。だから宗教組織を権力の座につかせてはならぬと思っている。

しょせん人間社会は、群れ社会である。群れの統率力を強めるには、ボスが強くあらねばならぬ。沖縄防衛局長は、世情の風に吹かれる風見鶏とは違うドンキホーティのようなクソマジメな人物なのだろう。こう云う人物は、国土を守る自衛隊にふさわしい人物じゃないか?・・と思うのだ。


沖縄防衛局長の<講話>が国会で問題にされている。
だが日教組の選挙応援、官僚の政治家転身など、組織ぐるみ、地位利用の選挙応援なんて、与野党あげて、いまに始まったことではない。この講話を追及する共産党にしてみても、選挙母体の一つに全日本教職員組合協議 会なる公務員(教員)の団体が政治活動している。
共産党に乗っかって、エラそうに国会で追及していた小池百合子だって、探してみれば防衛大臣のころに、各地の駐屯地で同様な選挙関与が行われていたにちがいない。

ちょっと前に大阪市長になった橋下は、組織ぐるみで反橋下運動を展開した大阪市労組をやり玉に挙げて、市庁舎の撤退を求めている。自治労が民主党の選挙母体なのは知れたことだが、高級官僚の保守政治家への転身もその地位と利用した天下りの一つと云える。そんな政治家と公務員の癒着関係は、明治以来の日本の半ば伝統である。

公務員だけじゃない。企業も同じである。
どこの市町村議員にも、地元企業の息のかかった天下り議員がいて、たいがいが労組委員長経験者であったり、役員経験者である。沖縄県知事の仲井眞弘多とて、通産省から沖縄電力に天下り、社長を勤めたのちに政治家に転身し知事となった。
東京電力の社員にして杉並区議会議員もいる。しかも呆れたことに東電からは給料まで支給されているのだ。東電はそんな社員がいても当たり前だと問題にもしていなかった。たぶん全国の市町村には、電力会社社員の掛け持ち議員がわんさといるに違いいない。
この国は、組織ぐるみ、地位利用の選挙応援なくして、議員など当選するのはムズかしい仕組みに出来あがっているのだ。

沖縄防衛局長の行動は、うかつと云うかバカというしかない。
本人は従来の局長のやり方を踏襲したにすぎないのだろうが時期が悪すぎた。野党は、田中アホ大臣の上げ足を取ろうと鵜の目鷹の目でアラ探しの最中なのだ。恰好な政局の道具にされてしまった。結局は、アホ大臣の代わりに、沖縄防衛局長は人身御供にされ、更迭されて一件落着なのだろう。

そんな木っ端役人を血祭りにあげて、国会論争を繰り広げる政治家には飽き飽きだ。もっと、税と年金・福祉の問題を徹底的に議論しろって言いたい。俺たちにはそっちが大切なのだ

2012年2月から営業日は、<木・金・土・日>の週4日に変更いたしました。
月の第1日曜日は定休日です。
営業時間は、従来どおり14時から16時30分です。

また持病の不整脈・および眼科治療のため臨時休業となる場合もありますので、ホームページのカレンダーを確認の上お越しいただきますよう、勝手ですがお願い申し上げます。ホームページは左のリンクをクリックしてお入りください。


これからも、できるだけ永く真空管が奏でる良質な音をお届けいたしたいと存じます。
御贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

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