自由を持て余すことない人生
人生で最も楽しかった時代は、受験戦争から解放された大学時代だった。休みは発掘三昧で汗を流し、酒も覚えたし、恋もした。親のすねをかじり、将来の不安を感じることもなかった。休講となれば、サークルの部室か雀荘か喫茶店で時間を潰した。自由な時間を持て余すことはなかった。いまでも叶うなら学生時代に戻りたい。
就職は4年になるまで考えたこともなかった。希望すス職種もなかった。束縛されて自由な時間を失うことが一番の不安だった。しかし、それほど苦労もなく親のつてもあった日本鋼管の入社試験に合格できた。試験は旧帝大・早慶・其の他私学の3枠に分けられ、其の他私学は200人ほどが受験したが、合格したのは私を含めてたった5名ほどの狭き門だった。同期入社の学卒150人中140人近くは旧帝大と早慶だった。
親のコネといっても、それほど強いものではなかったので、当時の超名門企業だった日本鋼管に入社できたのはラッキーというしかない。親からは取締役総務部長の正親(おうぎ)さんを紹介されたが、訪問時に対応されたのは総務部次長だった故渡辺宏治郎さんだった。渡辺さんは、偶然にも立教の先輩で熱心にお世話いただき、入社試験前に人事総務担当の副社長面接を段取りしてくれた。面接後に副社長の了解がでたと太鼓判を押してくれた。もし大学先輩の渡辺さんと出会わなかったら、軽くあしらわれていただろう。
入社後は、いつのまにか与えられた仕事を熱心にこなす会社人間となり、営業成果達成だけが目標の30年間が過ぎ、営業部長まで経験した。52歳で二部上場の日本鋼管工事㈱に転籍したが、張り合いのない窓際族の会社員生活に未練はなく、60歳で束縛から解放された。
60歳で給料がなくなる不安はあったが、一生を働くことが喜びだとは思わなかった。定年退職の日に授与された永年勤続表彰状はゴミ箱に捨てた。ネクタイは全て処分し、背広も着ることはなかった。ネクタイと背広は、私にとって作業着であり、外見を立派に誤魔化す道具だった。二度と着たくなかった。私は組織の歯車に過ぎなかったので、キャリアを生かすほどの能力はなかった。いわば私は小学生がランドセルと決別するように、希望に満ちた新たな人生を歩きたいと考えていた。
第二の人生を考え出したのは、日本鋼管工事㈱東京本店に配属されたのが転機だった。秋葉原の電気街に近い岩本町が事務所だった。昼に何げなく立ち寄ったのが、ヒノ・オーディオだった。そこで故日向野耕一社長と出会い、地下のオーディオ視聴室で昼休みを過ごすようになった。日向野さんはコーヒーの出前を毎回ごちそうしてくれ、私のオーディオ蒐集も始まった。定年を機にオーディオ喫茶もいいと考えるきっかけだった。地下室にはJBLやALTECなどの大型スピーカーの名機が並び聴き比べて批評するのが楽しかった。ALTECでも千差万別である。ある時、オリジナルのALTECバレンシアが持ち込まれ、国産箱のALTECバレンシアと聴き比べた。ユニットは同じだが、音の豊潤さがまるで違う。即決で買うことに決めた。それは今でも私の宝物である。
オーディ熱に火がついた私に欠けていたのは、ソフトだった。入社以来の同僚だったミノワ君がジャズキチで、蒐集するレコードは1万枚を超えていた。私はジャスでは敵わないので、女性ボーカル収集に中古レコード店巡りを始めた。そこで知り合ったのが、川崎駅前のTOPSの渡辺さんである。女性ジャズボーカルの在庫では、関東随一と云ってもいい。入り浸っているうちに、酒も飲む仲になり、気茶店開業の後押しをしていただいた。私の第二の人生を導いた恩人は、ヒノ・オーディオの日向野さん、TOPSの渡辺さん、それにミノワ君の3人である。因みにミノワ君は、目黒区立一中の二年後輩で、奥さんも立教大学の二年後輩である。
喫茶店を開業して知り合った私の周囲には、定年退職後の自由な時間を持て余す人はほとんどいない。しかし世の中には、定年後の有り余る自由時間を持て余すあまりに、精神不安を抱えたり、一気にボケが進む人も多いようだ。仕事で束縛されてきた惰性の時間を、自らでは埋めることができなくなってしまった。さあ自由だ、好きに暮せと言われたって・・・・なかなか埋められない。その点で技術系の方は、退職後も能力を発揮する場が多いようだ。
私は自分本位に生きてきたので、自由を持て余す人に、的確な助言は持ち合わせていない。人それぞれ、興味や趣味や生き甲斐が異なるから、その人にあった生き方は十人十色で、人まねはできない。
私の体験から一つだけアドバイスすれば、一日の定常的ルーティーン ( routine,) を守ることである。私の場合は、5時半起床で朝のラジオ体操に参加することから一日が始まる。午前中はパソコンで頭の体操。午後3時から5時まではスポーツクラブで過ごす。特に温浴は免疫力を向上させル効果が高いので高齢者には欠かせない。夜は一杯飲んで寝るだけである。自由時間は午後のひと時だけである。もうすぐ目の限界からパソコンは使えなくなる。音楽を聴いて過ごすしかなくなるだろう。
定年前から余生の過ごし方を自らが模索し、何に没頭できるか課題を見つけることである。セカンドライフのための講座を設ける朝日カルチャーセンターや大学も多い。公民館に行けば、各種催しやサークル勧誘の張り紙がある。どんな分野でもいい。外部の刺激を受ける学ぶ好奇心を失わないことである。